当寺の創立は応仁二年(1468)。開山様は月窓明潭大和尚です。月窓様は須賀川の長禄寺(観音寺本寺)を開創の後、晩年に越後長尾氏の招請により、観音寺を開かれました。境内には樹齢5百年を超えよう程の銀杏、欅、杉が聳え立っていますが、開山様お手植えの樹木とも伝えられています。
開山様より九代器堂存朴大和尚のころまでは法脈が正しく伝えられていたようでしたが、その後、祝融などに見舞われ山内は疲弊した時代となりました。越後の武将上杉謙信は手厚い信仰を寄せ、深く外護し復興の一助をなしたといわれます。謙信没後は当山中興の開基として墓所を設け、位牌を献じて供養に務めてきています。
また、謙信没後、景勝は更に観音寺に帰依して寺領安堵を進め、地元はもとより水原福田方面にまで寺領は広まって行きました。景勝は寺内に心字池を中心とした柏樹園という名園を築いていますが、これが林号の命名ともいわれています。
江戸時代初頭のころの過去帖によると,上杉家の深い帰依により、当山も隆盛したのですが、再び荒廃する時期を迎えることになりました。時いたって二十四世仙巌盤旬大和尚は復興に心血を注いで伽藍の整備、寺領の管理にあたり、面目を一新して修行道場として各地より龍象衆が訪れ、法筵繁栄し威勢大いに振って来るようになりました。
天保年間、煩海筏舟という方が越前より来越し三十四世として晋まれました。この方は後に幕末の名僧、と言わしめた卓越した禅者であったと伝承されています。生き葬式を終え、行脚の人となって山形立石寺が終焉の地となりました。のちに「伐舟古仏」と呼ばれたのです
戊辰戦争が当山に甚大な被害を与えました。慶応四年(1867)七月二十七日頃、逃亡中の会津藩兵士多数が当山に来襲し、しばし身を寄せていたのですが、八月二日早朝遂に官軍との激しい交戦の場となり、建物、樹木の一部などが無残にも灰と化してしまいました。幸いに事前に煩海筏舟大和尚の弟子三十五世寶海玉舟大和尚の指揮により会津藩兵士の力を借り、過去帖、什物、書画などは、裏山に持ち出し難を逃れました。
度重なる災難に遭遇するも、寺檀ともに力を合わせ復興の道へと歩み始め、明治三年(1870)五泉陣屋の建物を買収、移築して一時庫裏、座禅堂として使うことになりました。寶海玉舟大和尚遷化してその弟子、三十六世仙峰良寿大和尚となって明治十七年(1884)に法堂、庫裏、開山堂、鐘楼などが完成したのです。
開創から明治初期まで
元 号 |
西 暦 |
事 跡 |
寛正四年 |
1463 |
月窓明潭大和尚奥州より入越 |
応仁二年 |
1468 |
観音寺開創 |
文明九年 |
1477 |
月窓明潭大和尚示寂 |
天正七年 |
1579 |
上杉景勝より百五十貫を受ける |
宝暦三年 |
1753 |
殿堂焼失ーー二十三世代 |
宝暦十年 |
1760 |
殿堂再建ーー二十四世代 |
寛政二年 |
1790 |
寺格常恒会の認可を受ける |
慶応四年 |
1868 |
戊辰戦争で殿堂を焼失する |
明治三年 |
1870 |
五泉陣屋を移築 |
明治十五年 |
1882 |
法堂、開山堂、鐘楼堂を再建 |
明治三十四年 |
1901 |
専門僧堂、禅林認可開単ーー三十七世代 |
昭和十六年 |
1943 |
梵鐘を大戦に供出-ー四十世代 |
昭和二十七年 |
1952 |
庫裡改築工事竣工 |
昭和三十一年 |
1956 |
鐘楼堂改築工事竣工、保田孝順寺より梵鐘を迎える |
昭和四十六年 |
1971 |
位牌堂改築工事竣工 |
昭和五十年 |
1975 |
不動堂、回廊改築工事竣工 |
昭和六十三年 |
1988 |
書庫、什物庫完成 |
平成元年 |
1989 |
法堂瓦葺き替え工事竣工 |
平成七年 |
1995 |
庫院、玄関、物置改築工事竣工 |
平成九年 |
1997 |
鐘楼堂、向拝瓦葺き替え工事竣工 |
平成十年 |
1998 |
法堂、庫裡参道石畳工事竣工 |
平成十年 |
1998 |
観音寺霊園完成、梅花観音石像竣工 |
平成十五年 |
2003 |
庫裡屋根瓦修理、石積み工事竣工 |