私はいったい誰でしょう?〜「伯爵令嬢小鷹狩掬子の七つの大罪」、「邪宗門」、「青ひげ公の城」の上演から〜

 



 二〇一〇年の四月から七月にかけて、三本の寺山修司作品が上演された。プロジェクト・ニクスの『美女劇・伯爵令嬢小鷹狩掬子の七つの大罪』、劇団APB-Tokyoの『邪宗門』、そして青蛾館の『青ひげ公の城』である。これらの作品は、虚構と現実をめぐる物語である点で共通している。他作品との比較なども交えながら、寺山作品に潜む劇の謎について語っていきたい。

 

二〇一〇年四月にプロジェクト・ニクスが上演した『伯爵令嬢小鷹狩掬子の七つの大罪』(以下、「伯爵令嬢」と略)は、演劇実験室天井桟敷によって、一九六八年に『青ひげ』との併演で初演された。美女劇と銘打たれ、女優ばかりの出演者で上演された作品である。

凋落した貴族邸で、女主人の掬子、人形蒐集狂の赤頭巾、資産家の人妻でありながら淫蕩なアナベラ夫人、ゴシップ屋の鰐夫人らが、女中のつぐみの悪口で盛り上がっている。遅刻してやってきた派遣女中のつぐみ(便宜上、以下つぐみAとする)は、田舎者で、常におどおどしているさえない少女である。だが留守番を任され、夫人たちが全員外出していなくなった途端、「さあ、これからはあたしの時間。何をしようとこっちのもんだ!」と叫んで態度を豹変させ、屋敷内で我が物顔にふるまいはじめる。この「女主人の不在中に、御屋敷で使用人が悪だくみをする」というプロットには、後期の寺山作品『奴婢訓』同様、ジャン・ジュネの『女中たち』の影響が強く見られる。

つぐみAは、化粧道具を勝手に使った後、恋人に電話をかけ、令嬢としての嘘の身の上を長々と話し始める。やがて「令嬢だというのは嘘で、自分は、本当はただの女中。でも、それでもあなたが好き」と告白するが、その瞬間、掬子達が物陰から現れて、実は電話線が切れていることを告げる。どこにも繋がっていない電話に向かって、独り遊びの自慰行為をしていたつぐみを掬子達が次々に罵倒し、嘲笑する悪夢のような時間。あまりに屈辱的な仕打ちに泣き崩れたつぐみAだが、次の瞬間、別人のような冷酷な顔で立ちあがる。そして「これが私たちの復讐です」と言ってテーブルクロスをめくると、そこには縛られ、猿轡をはめられたほんとうのつぐみ(便宜上、以下つぐみBとする)が現れる。

つまりここまでの物語の全てが、アナベラ夫人の夫と不貞を働いたつぐみBへの復讐として、かつてつぐみBが体験した最も悲惨な瞬間を、彼女の眼の前で寸劇として再現していたのだということが分かる。

ここでは、「恋人に自分が令嬢であると語る嘘の身の上の演技≧架空の恋人を相手に電話をかける演技≧虐げられる女中のつぐみであるという復讐劇の中の演技≧「伯爵令嬢」というお芝居の中の演技」というように、幾重にも虚構の多重構造が形作られていることが分かる。俳優は、どこまでこの多重構造を意識して演じていたのだろうか。

 

まずは、役者の身体面から生まれる演技の多重性について考えてみたい。

たとえば、江戸川乱歩原作・三島由紀夫脚本の映画および舞台の「黒蜥蜴」で、女賊黒蜥蜴を美輪明宏が演じているが、敵対し合いながら惹かれあう黒蜥蜴と名探偵明智小五郎の関係を、同性愛的な視点で見る人はおそらくいないだろう。美輪明宏は性別的には男性であるが、映画の役柄上は間違いなく女であるからである。

歌舞伎の女形も同様である。男性によって演じられていても、役柄が男性と女性であれば、その二人の愛を観客は男女のラブストーリーとして観るだろう。

それが、蜷川幸雄が歌舞伎の演出に初挑戦した『NINAGAWA十二夜』(二〇〇五年七月初演)になると、事情は少し複雑になる。これはシェイクスピアの『十二夜」を歌舞伎に翻案した作品である。ヒロインの琵琶姫は、男装して獅子丸と名乗り、大篠左大臣のもとで小姓奉公をするのだが、やがて互いに惹かれあっていく。獅子丸(琵琶姫)は女性なので、男性である左大臣に惹かれるのは当然だが、左大臣は獅子丸の正体を知らないので、自分に衆道の気があるのではないかと思い悩む。

ここでは、「「「男性である獅子丸」を演じている女性である琵琶姫」を男性である尾上菊之介が演じる」という多重構造が出来上がっている。「男」を演じるときと、「男を演じる女」を演じるときでは、演技のありようは違ってくるだろう。随所にほんのかすかに女性的な所作を交えることで、菊之介は見事にこの点を演じ切っていた。

二〇〇七年四月に劇団翠の公演『毛皮のマリー』を観た際にも、同様の多重構造が感じられた。部屋に閉じこもっている少年・欣也を、外の世界から来た美少女・紋白が誘惑する。寺山修司の台本の指定では、『毛皮のマリー』は、すべてが男優によって演じられることになっている。そして紋白は、美輪明宏演出版の若松武のように、たいていの場合はいかつい男優が演じていて、役柄の設定と風貌とのギャップ自体が笑いを誘うことになっている。欣也に迫る紋白は、役柄上は異性愛だが、観客の目にはタチがネコを襲うホモ・セクシュルアルな同性愛のように映ることになる。しかし劇団翠の公演では、欣也も紋白も、女優によって演じられていた。そのせいで、台本の指定上は男×男のホモセクシュアルなシーンなのに、演劇の設定上は男×女の異性愛で、観客の目に映るのは女×女のレズビアンなシーンになるという不思議な倒錯が起こっていた。

プロジェクト・ニクスの『伯爵令嬢』においても、野口和美が強烈な個性で鰐夫人を演じていたが、彼が「オカマ」として鰐夫人を演じたのか、女として演じたのかが気になるところである。男性として出演するときは「野口和彦」で、女形として出演するときは「野口和美」で名前を使い分けているということなので、おそらくは女として演じたのだと思われる。

 

二〇一〇年四月に劇団APB-Tokyoが上演した『邪宗門』は、一九七一年に初演され、ベオグラード国際演劇祭でグランプリを受賞するなど、海外で何度も上演された天井桟敷の前期の代表作である。寺山が、「花嫁を迎えるために、自分の母を姥捨山に捨ていく」という自作の戯曲『青ひげ』を改作し、劇を作者の書いた台本どおりに演じさせようとする黒子と、自分の好きなように演じようとする俳優との権力闘争として描いた作品である。

劇団APB-Tokyoの上演では、初演で鞍馬天狗役を務めた昭和精吾が数十年ぶりに同じ役を演じたことなども話題になった。しかし、内容的には「記録」として残された寺山の戯曲を丁寧に再現するにとどまり、革命の演劇としての過激さは感じられなかった。俳優が黒子の呪縛から解放され、作者の書いた台本ではなく、自分の名前と自分の言葉を叫びだすというラストシーンにしても、APB-Tokyoはこれまで『邪宗門』以外の演目を上演する際もラストシーンの演出として多用してきたので、もはや劇的破壊力をもったものではなく、ただのカーテンコールの役者紹介にしか見えなくなってしまっていた。

むしろ台本から逸脱した行為として面白かったのは、開場から開演までの客入れの部分である。CDブック『邪宗門』には、一九七二年の渋谷公会堂での天井桟敷の公演の模様が収録されていて、開演前から会場に音楽が流れ、俳優が観客をアジテートしている様を確認できる。この熱気さながらに、APB-Tokyoの公演の客入れにおいても、黒子の衣装をまとった俳優たちが、舞台上から観客を挑発していた。しかしその内容は「ここの席が空いてるぞ、とっとと座れ、おらぁ!」「二名様ご案内!ここの席が空いていて見やすいぞ、おらぁ!」「てめえ、チラシ落してんじゃねぇ!落とし過ぎだぞ、こらぁ!」という風に、言葉使いは乱暴で芝居がかっているがちゃんと案内する、罵倒するけれど親切、という不思議なギャップが笑いを誘う形になっていた。暴力的に観客を扇動して劇に取り込むのでもなく、予定調和的な和やかな観客参加に終始するのでもなく、劇と現実とのはざまで、観客を上手に弄りまわしながら、少しずつ劇の内側へと手繰り寄せていく。最近のAPB-Tokyoはその観客を取りこむ手法が、公演ごとに洗練されていっているように感じられた。

寺山の映画台本を元に舞台化した前回公演『草迷宮』(二〇〇九年一〇月上演)でも、導入部分が見事だった。はじめは観客参加のイベントのような雰囲気の中で、俳優が観客にいろんな質問を浴びせていく。やがて「あなたの好きな童謡を教えてください」という質問の中で、観客に順々に知っている童謡のワンフレーズを歌ってもらっていくのだが、ある客が「あんたがたどこさ」を口ずさんだ瞬間、俳優の一人(マメ山田氏)が「それはもしかして、手鞠唄の文句じゃないか?」とつぶやき、そこから一気に『草迷宮』の物語―亡き母の歌っていた手鞠唄の文句を求めてさまよう少年の物語―へと引き込まれていくのである。それまでは日常の現実空間だったものが、「それはもしかして〜」の言葉を境にして、一瞬にして虚構の空間に様変わりする。

高橋咲の小説『15歳 天井桟敷物語』でも、一九七二年の『邪宗門』渋谷公会堂公演について触れられている。客席から日本刀を持った男が乱入してきたが、とっさの機転で黒子の一人が男の後ろについて動きに合わせて糸を操ったところ、観客は芝居の一部だと思い、男も急に芝居っ気を出し始め、暗転とともに下がっていった、というエピソードがある。男は舞台に上がってきたときは現実世界の住人だったのに、出ていくときは虚構の世界の住人になって出て行ったわけである。

『邪宗門』のクライマックスに「劇と劇との変わり目の地獄を見せて頂戴」という台詞があるが、現実と虚構との変わり目の瞬間こそが『邪宗門』の見せ場であるとするなら、APB-Tokyoの公演におけるそれは、客入れの案内係として現実世界の側にいた黒子たちが、なり響く音楽とともに劇世界の登場人物に変身する、幕開きの瞬間だったように思う。

 

二〇一〇年七月、青蛾館によって上演された『青ひげ公の城』は、バルトークのオペラ『青ひげ公の城』を下敷きに寺山が台本を書き、一九七九年に西武劇場で初演された作品である。

『青ひげ公の城』というお芝居を上演しようとしている劇場に、青ひげの七人目の妻の役に選ばれた女優志願の少女がやってくる。青ひげ公には七人の妻(を演じる七人の女優)がいて、それぞれ自分だけが青ひげの愛を一人占めし、舞台上で一番目立とうと画策するが、肝心の青ひげ公(とそれを演じる男優)は、なかなか現れない。そして少女には、劇場の照明係をしていて、劇場で姿を消してしまった兄の消息を探すというもう一つの目的があった――という内容である。劇場の内部を描いたバックステージものであり、虚構と現実が入り混じるメタシアターである。

「不在の主人をめぐる物語」として解釈されることの多い『青ひげ公の城』だが、「悲劇喜劇」二〇〇三年七月号の中村哮夫と高橋豊の演劇時評の中において、二〇〇三年にパルコ劇場で上演された『青ひげ公の城』での三上博史の第二の妻の演技から、新たな解釈がなされている。それは「第二の妻は実は青ひげ公自身であって、彼が女装しているのではないか」というものである。確かに私がこれまでに観た公演でも、一九九九年の演劇集団池の下の上演では稲垣悟、二〇〇三年の流山児祥演出による上演では篠井英介、二〇〇七年の劇団APB-Tokyoの上演では浅野伸幸、二〇一〇年の青蛾館による上演では野口和彦と、「第二の妻」はすべて男優によって演じられている。寺山修司による初演でも、ピーター(池畑慎之介)によって演じられたはずである。もしこの解釈通りなら、「「「青ひげ公の第二の妻」を演じる女優」を演じる青ひげ公」を演じる俳優という、多重構造が出来上がる。寺山が実際にそのような意図を込めたのかどうかは確かめようがないが、もし本当だとすれば、実に寺山らしいトリックだと言えるだろう。

劇中の「第二の妻」は行方不明になった兄の真実を探ろうとする少女を「青ひげ公」の振りをして騙そうとしたりする。彼女の正体が青ひげ公なら、いけしゃあしゃあと自分自身の役を演じているわけである。そして自分の企みがばれると、世の中の全てが「仮面」をつけて演じる劇にすぎないことを語り、「外しても、外しても、外れない最後の仮面は……。人殺しの仮面です!」の台詞とともに姿をくらまし、その後は出てこない。それが「外れない最後」のものであっても、「仮面」である以上、その下に「素顔」が隠れているのではないか?それが「青ひげ公の顔」ではないのだろうか?だがそうすると今度は、「第二の妻」はいったいどこへ行ってしまったのか?という風に、次々と謎が浮かんでくる。

寺山は「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」というブレヒトの言葉をたびたび引用したが、青ひげ公は「主人」あるいは「主役」としてカリスマ的な役割を演じることをことに疲れ果て、女装し、脇に隠れて、物語にちょっかいを出すことに終始しようとしているのかもしれない。

学生時代の文学論の授業で、谷崎潤一郎の『春琴抄』について、春琴に火傷を負わせた犯人には、春琴の自演説と佐助犯人説があると聞いて仰天したものだが、小説も戯曲も行間を読むものである以上、作者の思惑を超えて、様々な解釈が、なされるべきであろう。まして寺山修司は、「劇の半分は、観客が想像力によって補完すべきものだ」として、あえて不完全な台本を書いている部分もあり、もっともっと自由な解釈があっていいはずである。

プロジェクト・ニクスの『伯爵令嬢』においては、劇中劇として、人形劇の『便所のマリア』が挿入されている。少女娼婦だったマリアはローソク屋のおじさんに引き取られ、毎月小さな赤い花を結んだローソクを売りに出すことで、店は繁盛する。しかし、おじさんがマリアを犯した日から赤い花は咲かなくなって、ローソク屋の商売は苦しくなっていき、ある夜にマリアは姿を消してしまう。劇中、「つぐみB」の本当の名をマリアとすることで、彼女が『便所のマリア』のその後の姿であるという設定が付け加えられていたが、それは言葉だけのものにとどまり、それ以上深く両作品のつながりを示すものにはなっていなかった。今後はもっと踏み込んだ形での新解釈を見てみたいと思う。

 

青蛾館による『青ひげ公の城』はリオフェス二〇一〇(岸田理生作品の連続上演企画)の一つとして、寺山修司の戯曲『青ひげ公の城』に岸田理生の映画シナリオ『悪徳の栄え』を組み合わせる形で上演されたが、二作品の融合がうまくいったとは言い難く、物語の進行するテンポが悪くなり、内容も分かりにくくなってしまった部分があったように思う。ただ、クライマックスは感動的であった。『青ひげ公の城』のクライマックス、すべての登場人物たちが好き勝手にお芝居の「台詞」をしゃべりだし、舞台中に「台詞」が溢れだす。原作では、古今東西有名なお芝居から引用した台詞が使われていたのだが、野口和彦はここで全ての台詞を、寺山の作品から引用した。とりつかれたように寺山の言葉をしゃべり続ける野口氏は、死者の言葉を口寄せするイタコ、寺山の魂を呼び寄せ、自らの身に宿らせて蘇らせようとする巫女のように見えた。

 

今度は、役者の精神面から生まれる演技の多重性について考えてみたい。『伯爵令嬢』に話を戻すと、物語が進むにつれ、つぐみBが不貞を犯したのは、掬子とのレズビアン的な同性愛の関係を維持するのに夫の存在が邪魔になったアナベラ夫人が、自らの手でお膳立てをして仕組んだものだったことが分かる。はじめは「私が自分の意志でやったことで、わたしはあの人を愛していた」と繰り返していたつぐみBも次第に不安になり、「でも、今のお話を聞いているうちに……ほんとだったんでしょうか?あたしの気持ち!」と。自分の不安をつぐみAにぶつける。つぐみAはこれを一笑に付す。

 

「(笑う)わかんないわ、あんたの気持ちなんて。自分の気持ちだってわかんない……ときどき、自分で自分に話し掛けてみるけど、そんな時は大抵……留守ね、私がいないの。さっき、コードのない電話で、話してるときは、私がいた……そう、相手がいないのに、私はちゃんといた……一人だって気なんかぜんぜんしなかった……あのとき、あたしはあなたになっていた。でも、あたしがあなたになってるときのあなたは一体、誰だったのかしら?あなたの影?それとも、あたし?」(『寺山修司の戯曲4』一五二頁)

 

自分の内面に対して「留守」という言葉を使うあたりが、寺山らしいウィットに富んでいて面白い。玉ねぎの皮をむくように自分の仮面を剥いでいって、一番に最後に残るのが、「本当の自分」であるはずである。だがじつは、それさえも虚構なのではでないか。

世界的な演出家であるピーター・ブルックが監督した『マラー/サド』(原作はペーター・ヴァイスの戯曲『マルキ・ド・サドの演出により、シャラントン精神病院の患者によって上演されたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺』)という映画がある。題名通り精神病患者が俳優になって劇を演じる様子を追っていくのだが、精神を病んでいるために、演じている途中で我を失って暴れだしたり、叫びだしたりする。最後には俳優(患者)全員が暴動を起こして看護婦や看守を襲い始め、精神病院が阿鼻叫喚の地獄になる中で幕を閉じる。この映画の中では、当然のように俳優が「俳優を演じる精神病患者」を演じているにすぎないのだが、あるひとつの問題を提起している。「私」あるいは、「心」というものの不確かさである。劇においては、役柄を演じる俳優の「どう演じるか」という主体的意識が問題になってくるが、この「主体そのもの」が実は不確かなものではないのか。

中学や高校の現代文の授業で馬鹿の一つ覚えのように教えられた「アイデンティティー(自己同一性)」という言葉がある。自分自身の内面、自分とは何者かが現代人にとってのテーマだった。しかし寺山は、さらに踏み込んで、繰り返し問いかける。あなたには本当の自分なんてあるのか?もしあると考えているとして、それは本当に「本当の自分」なのか、と。

『赤糸で縫い閉じられた物語』所収の『踊りたいけど踊れない』という話では、主人公の少女は、「体が自分の気持ちと正反対に動き出しまう」ようになり、行きたくない場所に足が勝手に行ってしまったり、好きな男の子に唇が勝手に「嫌い」と言ってしまったりして、困惑する。そんな彼女に対して一人の老人が、「もしかしたら、手や足のほうが正直で、あたまだけが、おまえのすることにさからっているのではないのかね」という逆説的な問いかけをする。

また、『さかさま博物誌 青蛾館』収録の「口寄せ」という話では、恐山で巫女に死んだ妻の口寄せをしてもらった男が、「私がほんとに好きだった男はあなたではなく、隣の正造さんだった」と言われ、逆上して首を絞めて殺してしまった、という事件を紹介している。男は死んだ妻の首を絞めたつもりだったが、実際に死んだのは口寄せをした巫女だった。殺された巫女に本当に死んだ妻の魂が乗り移っていたのか、それともただ単に巫女が演技過剰だっただけなのかは、誰にもわからないのである。

人間は間違いを犯す動物である。また常に本心を話すとは限らないし、自分は本心を話しているつもりでも、無意識では別のことを考えていることもある。ある片思いの男が純愛だと思っている行為が、傍から見ればストーカーの犯罪行為でしかなかったり、ある親が愛ゆえのしつけだと思っている行為が、傍から見たら児童虐待でしかなかったりするように、人間の心はしばしば自分自身も裏切る。

外部から見て狂人にしか見えない人間が、本当に狂っているのか、狂っているふりをしているだけなのかは、誰にもわからない。逆に自分では正常だと思っている人間が、周囲からは狂人にしか見えなかったり、自分では狂人だと思っている人間が、周囲からは正常な人間に見えたりこともある。「狂う」を「演技する」と置き換えてもいい。そもそも演劇の起源が神儀であり、トランス状態になって神の御魂をその身に宿らせるためのものだったと考えるならば、「我を失う」という点で、「狂うこと」と「演技すること」は、同じものなのかもしれない。取り出して確かめてみることができない以上、人間の魂(心)というものは永遠の謎なのである。 

『伯爵令嬢』の台詞のラストは、次のように結ばれている。

 

「……さ、いらっしゃいよ……一緒にお食事しましょうよ……そしてまたはじめっから推理してみましょう。『あたしは誰でしょう』……これが一番、面白いミステリーだわ、お互いに」(「寺山修司の戯曲4」一五二頁)

 

最後に「お互いに」という言葉を付け足していることから、謎は二つに集約される。すなわち、「私は誰?」と「あなたは誰?」である。そしてこの二つこそが、劇においても、現実においても、最大の謎なのである。

 

 

【参考文献】

『別冊宝島53 精神病を知る本』宝島社

寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』角川文庫

『戯曲 毛皮のマリー』角川文庫

『寺山修司の戯曲 4・9』思潮社

    『赤糸で縫い閉じられた物語』マガジンハウス

『思い出さないで』マガジンハウス

【参考資料】

CDブック『邪宗門』(株式会社ブルース・インターアクションズ)

ピーター・ブルック監督『マラー/サド』



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