初期戯曲から読み解く寺山修司 其の1

化け損なった狐を殺せ〜『毛皮のマリー』の台詞から〜

 

 

 

『毛皮のマリー』は、1968年、演劇実験室天井桟敷の第三回公演のために、寺山によって書き下ろされた作品である。「見世物の復権」を目指した初期の天井桟敷の代表作で、物語としては贋物の母と子を巡る愛憎劇として解釈されてきた。それは最近の美輪明宏の演出版でも同じで、母の愛情に重きを置いた構成になっていた。だが実はその中に、後期の作品に連なるような、現実と虚構をめぐる物語が隠されている。そのことに気づいたのは、マリーと少年がそれぞれ違う場面で口にした、同じ台詞からだ。それは「化け損なった狐」という台詞である。

 

 

 『毛皮のマリー』の舞台は、戯曲の前書きによると「大正57年のある日、ある時」とある。これは単純に考えれば、昭和42年のことであるが、無茶を承知で、こう読み取ることも出来はしないだろか。これは「大正」が終わらなかった世界の物語なのだと。そう、大塚英志が『多重人格探偵サイコ』などの作品において、昭和74年という架空の時代設定の中で、「終わらない昭和」=「終わらない80年代」を終わらせようともがく者たちを描いたように。少年探偵団、エログロナンセンスなどの懐かしき大正ロマンの時代が、終わることなく続いてしまった別の世界の物語。だとしたら、『毛皮のマリー』はその物語の幕開きから、物語そのものがさらなる虚構の世界観の中に閉じ込められてしまっていることになる。

 

 物語の主人公は伝説の男娼・毛皮のマリーと美少年・欣也である。二人は、まるで本物の母子のように仲睦まじい生活をしている。いわば母子の芝居を演じているのだ。欣也はもう18歳になるというのに、小さな男の子のように半ズボンを履かされ、「外の汚い世界を見ない」ために、部屋に閉じ込められ、マリーの放した蝶を追いかけるだけの生活をしている。捕まえた蝶を標本にすることだけが、欣也の楽しみだ。ある日、マリーの留守に外の世界から美少女・紋白が現れ、欣也を外に連れ出そうとする。だがこのとき欣也は、マリーに叱られることを恐れ、応じない。欣也にとってマリーは、母という絶対的な存在なのだ。

 だが、マリーが愛人のマドロスに話す身の上話を盗み聞きして、欣也はマリーが自分を閉じ込めている本当の理由を知ってしまう。マリーはかつて、大衆食堂の男店員だったが、女店員の金城かつ子という子と仲良くなり、いつか自分も女(おかま)になってしまった。だがかつ子は、男であるはずのマリーの方が、女である自分よりも遥かに女らしくなっていくことに嫉妬するようになる。そしてある夜、マリーの身体を愛撫し、マリーの男根がたまらずに勃起したところで、その姿を晒し者にする。マリーの股間を指さし哄笑する。それに続くのが以下の台詞である。

 

マリー 一斉にとび起きてきた女店員たちの前で、あわてて前をおさえているあたしは、化けそこねた狐。性の波打際をさすらう、かなしい流しの歌うたいってサマだった。かつ子は、充血した目であたしのそれを指さして「これで女の子なんだって。これで女の子なんだって」と火事のように哄笑し、みんなもドッと笑い、観察し、あたしはいたたまれずに夜の大通りにとび出して行ったわ。そしてその夜、あたしは復讐を誓ったの。

(角川文庫『戯曲・毛皮のマリー』151ページ、傍線筆者註)

 

かつ子はマリーに金を掴まされた店の常連客に強姦され、妊娠し、難産で死ぬ。間接的にではあるが、かつ子はマリーに殺されるのである。いや、マリーが犯されるかつ子の顔を覗き見て、“そのまさに女そのものの表情を盗みとってやろう”としたことを思えば、かつ子の生は、男娼マリーの血肉となって取り込まれたのだと言ってもいいかもしれない。復讐はそれだけでは終わらない。マリーはかつ子の生んだ子を引き取って育てた。それが欣也であり、マリーはいずれ欣也を「男の子だったけど、これからじっくり手間をかけて女に」してしまい、「セックスの汚物を捨てる肉の屑篭にしてやる」つもりなのだと。

 

かつ子が殺された理由は、後期の寺山作品『青ひげ公の城』と比べるとよくわかる。ここに出てくる青ひげ公の第二の妻というキャラクターが、マリーととてもよく似ているのだ。この第二の妻は、自分が舞台上で刺し殺した三文役者を指してこう言う。“演技で死ねば何度でも生き返れたのに、本当に死んでしまうなんて、なんて馬鹿なんだ。私は演技の下手な奴が大っ嫌いなんだ。大切な台本が、こいつのつまらない人生で汚されてしまった”と。

虚構を現実よりも上位に位置付け、現実を改変し虚構化していこうとする考え方は、寺山作品に繰り返し見られるモチーフである。寺山自身の実人生においても、「書き換えの効かない過去なんてないんだ」と言って自らの生い立ちや出身地、思い出などをしばしば脚色し、虚構化した。母が存命であるにもかかわらず、「亡き母」をテーマにした作品を数多く作ったことなどは、有名な話だ。演劇『邪宗門』では、観客を舞台の上に引っ張り上げ、登場人物の一人にしまったり、『ノック』・『人力飛行機ソロモン』などの市街劇では、街そのものを劇の中に取り込んでしまったりした。

人生は一幕の芝居に過ぎず、女を演じることが自分の役回りだとマリーは語る。全世界は巨大な劇場で、人は誰もが何かに化けている狐。にもかかわらず、わざわざその仮面を剥ぎ取って、現実を突きつけようとするかつ子は、憎むべき敵なのだ。そして芝居を続けるためには、その敵は殺さねばならない。

 

そして物語は続く。真実を知り、荒れる欣也の前に、再び紋白が現れる。紋白は少年に外の世界を見せるために、部屋から連れ出そうとする。しかし薄目を開いて外の世界を見た瞬間、欣也は紋白を首を締めて殺してしまう。そのときの台詞が以下のものである。

 

美少年 汚い!汚い!化けそこなったキツネなんか

美少女 止めて、止めてったら……愛してるのよ。あなたが、あなたが、欲しいの!

美少年 何も言うな何もかも見たくないんだ……愛してほしくなんかないんだ。

(同 162ページ、傍線筆者註)

 

欣也が紋白を殺すのは、マリーがかつ子を殺すのと同じ理由である。それは「化けそこねた狐」の正体を暴こうとしたからであり、「大切な台本を人生で汚したから」なのだ。その意味において、マリーと欣也は同じ罪を負った共犯者だといえる。

マリーの告白に絶望したものの、欣也は決して自分の演じる役を降り、外の世界に出たいと思っているわけではない。なぜなら、紋白が欣也に見せようとしている外の世界の現実もまた、「何もかも嘘で塗り固められ」ていることに変わりはないからだ。そこにはただ別の嘘、別の台本、別の書き割りによって演じられる別の劇場があるだけだ。欣也の悲劇とは、虚構の世界に閉じ込められてしまっていることそのものではない。そこでの自分の役回りが、マリーのように自らの意志で選んで得たものでなく、マリーから一方的に与えられたもので、そしてそれが「肉の屑篭」になるという最低の役回りだったということだ。

(ちなみにここで、「外の世界では僕は年を取っている。今よりもずっと年をとっている」という台詞がある。もしかしたら物語中の現実であるはずの「18歳の青年」であることさえも、マリーに与えられた虚構の役柄に過ぎないのかもしれない。その世界が昭和ではなく、虚構の大正であるのと同じように。髪が白く染まり、皺が増え、目が見えなくなっても、““半ズボンの似合う男の子”を演じさせられる18歳の青年“を演じ続けるのだ。閉じた世界の中で何年も、何十年も――)

 

欣也は紋白が死んだの見届けた後で、紋白の死体も、どこかにいるはずの自分の母親も、すべてに標本にしてしまおうと思いたち、どこかへ去っていく。ここでの標本という言葉は、台本という言葉に言い換えてもいいだろう。それはマリーの標本だった自分が標本を作る側に、台本の通りに動かされるだけだった自分が、台本を作り役者を自在に動かす側に回ろうとする意志とも取れる。だが、マリーの手の中で踊らされてきた欣也には、外の世界で生きる力も、この閉じた部屋でマリーにとって変わって台本を作る側になるだけの力もない。欣也はマリーの一声でたちまちによびもどされしまう。

 

ラストシーン、椅子に座らされた欣也は、マリーの手で化粧をされ、ドレスを着せられ、ゆっくりと男の子から女の子へと作り変えられていく。それは蛹から蝶が羽化する様を見ているような美しいシーンであるのだが、その蝶は決して大空に羽ばたくことはない。少年が育てていた蝶のように、羽化した瞬間、その最も美しい姿のままで、ピンを刺され、標本にされてしまう運命なのだ。

金縛りにあったかのように動かなくなった欣也は、目だけをマリーに向け、涙を流し、それを見てマリーは笑う。それは舞台の支配者としての勝利の微笑であり、この『毛皮のマリー』という作品そのものを支配し創り上げた、寺山修司の姿であるともいえる。響き渡る哄笑の中、舞台はゆっくりと溶暗していく。

 

 

そして、虚構という名のドレスを身にまとい、自らが王として君臨する閉じられた世界の中で、男娼マリーは笑い続ける。狐の正体を暴こうとする愚か者たちの死体を、足元に積み上げながら――。


(2004.12.5仮公開)

 

 




 

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