寺山演劇鑑賞日記5
どこへ行こう?書を捨てよ、町へ出よう
〜流山児版花札伝奇2003〜
寺山修司・作『花札伝奇』 あらすじ
時は大正時代、東京のとある下町に小さな葬儀屋があった。そこでは葬式一切を扱うだけではなく、主人の団十郎が冥土のことに詳しく、どんな人間でも安く地獄への旅行案内をしてくれるというのである。というのも、実は団十郎はとっくに死んでいて、その家は「死の家」と呼ばれていたのだが、たった一人、娘の歌留多だけはまだ死んでいないという噂だった。団十郎は近々、歌留多を、地獄祭りに連れていってやろうと思っていたのだが、ところが歌留多は生きている人間に恋してしまった。生きてる人間、その名は墓場の鬼太郎と呼ばれた。犯罪河岸では、名のある泥棒で評判の美男子であったが、神出鬼没で誰もその正体を知らない……。
2003年7月26日17時55分、私は小田急線下北沢駅前にいた。流山児事務所の舞台、「テラヤマ三文オペラ 書を捨てよ、町へ出よう〜花札伝奇2003」の集合案内型チケットでA−1集合地を引いたからだ。今回の舞台では、上演前から下北沢の街中で劇は始まっており、集合案内型チケットを買った観客は、俳優に道案内されて市街劇を目撃しながら劇場までたどり着くという趣向になっている。ほどなく白塗りの俳優が現れ歌い始めた。劇の始まりである。A1チームは老若男女含めて総勢14名。今回の舞台は「時間」が一つのテーマになっているそうで、いくつかのやり取りがあった後、俳優が観客の時計を徴収。時計のない状態で時間というものを再認識して欲しいとのこと。そして出発。ジャンケン男や乳母車に乗った腹話術の男などを目撃しながら、やがて本多劇場下の駐車場へ到着。底に並べてある棺桶をもっていかないと劇場には入れてくれないとのこと。女性の観客がひとり棺桶に入れられる役になり、皆でそれを担いで劇場に入場。後で確認したところでは、ここまででおよそ40分くらい。ロビーではすでに様々なパフォーマンスが始まっていた。自分が見ていたのは犬神サーカス一座と名乗る集団。およそ芸らしい芸は見せず、ハッタリと話術で観客の心を掴む。だが、それでこその見世物一座、どう見ても偽者の熊男や蛇女でも、楽しんでしまえば勝ちなのだ。それが祭りという空間だろう。やがて開演19時近くになり、客席へと移動。そして本編の上演が始まった。
面白かった。久々に興奮した。間違いなく今年最高の舞台のひとつだった。素晴らしかった点はいくつもあるが、一番大きいのは、2001年の花園神社での初演版で不満だった部分が解消され、それがそのまま作品的魅力に繋がっていたことにある。それは、@「歌留多は美少女に演じて欲しい」、A「寺山修司の作品がいくつもコラージュされているが、うまく構成できていない」、B「花札の持つ極彩色の世界を再現しきれていない」の三つである。
まず@について。この舞台の下敷きになっている戯曲『花札伝奇』については、「初期の見世物劇の一つ」とか、「ブレヒトの三文オペラを下敷きにした風刺劇」とかいろんな評価がされているが、寺山の演劇作品において恐らく唯一の「ラブストーリー」だというのが、私にとってこの作品の評価だ。世間を渡り歩いてきた大泥棒の鬼太郎。常に追われ続ける人生を送ってきた彼が唯一追いかけようと決めたのが、世間知らずの純真な美少女歌留多。二人の恋物語が、寺山流のレトリックの効いた美しい台詞で飾られていくのがこの作品の大きな魅力である。それが2001年版では太ったおっさん(失礼)が演じることで、台無しになってしまっていた。団十郎の妻のおはかのように、わざとごつい男に女っぽい台詞を言わせることで笑いを誘うのを目的とする役柄もあるが、歌留多の場合は明らかにミスキャストだろう。今回は、2001年版の当時は高校生で観客だったという吉田奈央が演じている。『青ひげ公の城』のユディット役のように、こなれた演技力よりも初々しさが要求される役柄というのがある。歌留多はまさしくそうで、吉田奈央のややたどたどしい感じの演技が、歌留多の世間知らずな感じを表わすのにマッチしていた。そしてそのあどけない少女が、クライマックスで、愛する者と結ばれるためにはどんな手段も厭わない女へと変貌する。自らが死人であることを知った歌留多は、生きている人間である鬼太郎に向かって、「二人が結ばれるために、あなたの死を私にください」と告げ、その胸を突き刺すのである。このシーンは私がこの作品で最も好きなシーンであるが、流山児祥はここに新たな部分を付け加えている。原作戯曲ではこのシーンの後はすぐさま暗転となっているが、歌留多は鬼太郎の命を奪った刃物を捧げ持つと、その刃身にいとおしげに頬ずりするのである。さながらヨカナーンの生首に口づけするサロメのように恍惚とした表情で。そして死者となった鬼太郎の手をとり、立ち上がらせると、冥土へと連れ去っていくのである。その表情は、もはやあどけない少女の顔ではなく、男を惑わし破滅へと導くファム・ファタルとしての顔である。この少女が一瞬にして変貌する恐ろしさは、やはり美少女が演じないと成り立たないだろう。鬼太郎役の伊藤弘子も、白いタキシードに身を包み、宝塚ばりの名演を見せてくれた。
次にAについて。2001年版では、かなり多くの寺山作品がコラージュされていた。正確なことはわからないが、『青少年のための無人島入門』、『不死鳥』、『レミング』、『伯爵令嬢小鷹狩菊子の七つの大罪』など10以上の作品が使われていたと思う。しかしそれらの物語が互いにほぼ無関係に進んでいくため、作品として統一しきれておらず、散漫な印象に終わってしまった。今回は基本的には『花札伝奇』と映画版『書を捨てよ町へ出よう』の2本を土台に作られている。そして映画版『書を捨てよ町へ出よう』における主人公の青年が、『花札伝奇』の登場人物、団十郎・鬼太郎・夢二の少年の3人の過去の姿であるという設定を持ってくることによって、3人のキャラクターに深みを与えることに成功している。なぜ団十郎は死の商人になったのか、なぜ鬼太郎は泥棒になったのか、夢二の少年はなぜ死んだのか。あるいは『書を捨てよ町へ出よう』の、人力飛行機を夢想し、母に恋焦がれ、父を軽蔑していた少年は、その後一体どうなったのか。互いの作品中の謎に、互いの作品で答えを与えるという形で、見事に二つの作品が融合している。
次にBについて。『花札伝奇』はタイトルの通り、花札の絵札のような極彩色の世界を描くことも魅力の一つだと思う。2001年版でも、白塗りの俳優の面々が様々な衣装で登場したが、統一性がなく、花園神社の闇と空気に霞んでしまっていた。今回は、「赤」「白」「黒」の三つの色を基調にすることで、メリハリの利いた鮮やかな空間を作ることに成功していた。「赤」はすなわち、生きている人間の肌の色であり、女郎の長襦袢の赤であり、滴る血の赤である。「白」は死んだ人間の死化粧の色であり、ウエディングドレスの色であり、死に装束の色であり、すべてを照らす光の色である。「黒」は喪服の色のであり、怪盗のマントの色であり、総てを黒く塗りつぶす闇の色である。その3つの色が入れ代わり立ち代わり舞台を覆い、あるいはときに三つの色が混ざり合って極彩色の「祭り」や「サーカス」の空間を生み出す。ラスト近くの芝居の全登場人物が現れて、「盗まれた、盗まれた、女房を盗まれた」と団十郎を哄笑するシーンの鮮やかさには思わず鳥肌が立った。
他にも素晴らしかったのは、本田実の音楽である。ローリングストーンズの「PAINT
IT BLACK !」を寺山の詩で替え歌にしてしまう離れ業は言うに及ばず、「出口なし」や「死んだ子供のガセーラ」などの挿入歌もいいが、やはり素晴らしいのはエンドソング「どこへ行こう」である。この歌を聞くだけでも観劇の価値がある。自分の観劇経験の中でも最高の劇中歌である。床を踏み鳴らし、「どこへ行こう?どこへ行こう?どこへ行こう?書を捨てよ、町へ出よう」と歌い踊る俳優たちを見ていると、自然と一緒にリズムをとり、精一杯の拍手をしている自分がいた。
2001年版の『書を捨てよ、町へ出よう』以降の流山児祥は、ふんどし姿の男どもが床を踏み鳴らして踊る『最後から二番目の邪魔物』(2002年3月)、ハッピ姿の男たちが和太鼓を打ち鳴らす『人形の家』(2002年10月)と、祝祭的空間に満ちた作品を生み出してきた。今回の2003年版『書を捨てよ、町でよう』がその一つの到達点であることは間違いない。その主題は単純明快、「演劇は祭りだ」ということだ。それも儀式としての祭りでなく、火を囲み、大地を踏み鳴らして叫ぶ、より原始的な意味での祭りだ。俳優と舞台だけでなく、観客も、劇場も、さらにその周りの空間まで覆い尽くして、共に歌い、踊り、騒ごう、と。その狙いは見事に成功し、今回の舞台は上演時間の前後も含めて、熱狂に満ちていたように思う。劇場を出てからもしばらくは興奮が冷めやらなかった。さらに楽しみなことに、パンフレットによれば、この作品はさらにもう一度改良を加え、海外公演用のレパートリーになるとのこと。この素晴らしい舞台が最終的にどんな形に変貌するのか。心して待ちたいと思う。
(2003.7.27)