寺山演劇鑑賞日記3 

さらば、演劇集団「池の下」よ('02)

 

 

あれは一体何年前のことだったろうか。西新宿のビデオマーッケトのビルの6階で、まだ演劇関係の商品が売られていたときのことだ。散々悩んだ挙句、プレミアがついた寺山修司の本を買う勇気が出ずに帰ろうとした私は、店の一角の無料配布のチラシのコーナーにアングラチックなチラシを発見した。それは丸尾末広が描いた「毛皮のマリー」の公演のチラシだった。寺山修司に興味があったとはいえ、数ヶ月前に篠井英介のマリーを見たばかりで上演を観に行く気にはならなかったが、そのチラシは気に入ったので何枚か頂いていった。

それが演劇集団『池の下』との出会いだった。

 

次の出会いはすぐにやってきた。今は亡き東京グローブ座での、第8回公演「青ひげ公の城」。1999年の3月のことである。ざわつくロビーでパンフを読みながら、「この巨大な空間を使ってどんなテラヤマワールドをみせてくれるのだろう」と期待を膨らました。

結果から言うと、その期待は見事に裏切られた。印象に残ったところといえば、「アリス」役と「テレス」役が少女が可愛かったくらいか。感想を一言で言えば力不足。この「青ひげ公の城」の魅力は、虚構の力が現実と拮抗し、しだいに現実を浸食していく幻想性にあるはずだ。だが、俳優の演技も演出も平板で、一つの虚構世界を生み出すだけの力をもてず、グローブ座という巨大な舞台空間が持つ圧倒的な「現実」の前に完全に圧倒されていた。劇場という現実に呑まれてしまっている中で、虚構を語っても、その矮小さはもはや道化でしかなかった。最後の、少女の「月よりももっと遠い場所、それは劇場」という言葉が、一体何人の届いただろう。

 

そして6ヶ月が経った。上演内容に失望したとはいえ、「全作品上演計画」を掲げるこの劇団を寺山マニアの私が放っておけるわけもない。そして1999年11月、タイニイアリスでの第10回公演「花札伝奇」。

舞台と客席が地続きで、役者が目と鼻の先にいる、本当の地下小劇場。開演前の舞台で、美しい着物姿の少女が手鞠を持って舞っているのを見た瞬間、私の心はもう虚構の世界へと引き込まれていた。俳優の息吹が肌に感じられるほど近い空間。このくらいの空間が、「池の下」にとっては「等身大」なのだろう。わずかな空間を埋め尽くすように、異形の登場人物たちが立ち現れ、地上から隔絶された地下劇場は異界へと姿を変える。見世物小屋に迷い込んだような興奮が私を包み込んでくれた。ともすればやや戯画的に感じられる俳優の演技が、物語後半、それまでの喜劇的な展開から一変して、哄笑とともに悪意が爆発するシーンを際立たせる形に働いていた。

 

2000年3月、第11回公演「星の王子さま」。前回公演でかなり印象は良くなっていたし、劇場も中野ザ・ポケットと、ちょうどいい大きさの小劇場だ。ただ題材自体がそんなに面白い内容ではないので、そこそこの出来だろう。そんな風に思っていたら、実際可もなく不可もない演出と演技。ただ演出の長野和文が「最後に舞台に砂漠が出現します。それが一体どんな砂漠なのかはお楽しみ」と語っていたのが気になった。さあ、どんなラストシーンを見せてくれるのだろうかと期待を膨らます。そして、ラストシーン。ヒロインの点子のモノローグの後、舞台装置が消えた後ろには壁いっぱいの鏡が現れた。そこには客席が映っている。これが砂漠だというなら、あまりにお粗末のものだろう。しかも観客の表情一つ一つを鮮明に映し出す鏡ならともかく、安っぽい歪んだ鏡だ。これじゃせいぜい砂場程度だ。

 

2000年7月、プロトステージ「忘れた領分」。富野由悠季監督のこんな言葉を紹介させていただいて、自分の感想の代わりとしたい。

「最近見た映画で『獄門島』というのがあって、これが何故つまらないのか分かりますか?映画のラストシーンでビートルズの『レット・イット・ビー』がかかるでしょう。あの映画の画面に全く合致していない。ああいう曲を流せばなんとなく映画らしく終わったように見えるだろう、という製作者の意図だけでつくられている。だから『レット・イット・ビー』を聞いても、くそっくらえ!!と思ってしまうんです!」

この舞台を見て、自分の長野和文に対する評価は「陳腐な結末を考え出す天才」として定まった。

 

2001年3月、第13回公演「伯爵令嬢小鷹狩菊子の七つの大罪」。役者が非常にいい味を出していて、「花札伝奇」を彷彿とさせる。稲垣悟と深沢幸弘が演じる怪女ぶりが楽しいし、それに囲まれておろおろする稲川実加演じるつぐみも可愛い。やはり池の下は、「見世物の復権」を唱えていた頃の初期戯曲を素直に演出するのがいちばん合っているんじゃないかと感じた。そして中盤のクライマックス、主人公のささやか虚構が暴かれ、哄笑にさらされるシーンは、胸が痛くなるほどの衝撃があった。だが、最後の最後で、またとんでもない落ちを作ってしまった。戯曲どおりにラストシーンが終わった後に、舞台上で逆さ吊りにされた男たちに向かって、客席の通路に立った女優が、「さあ、みんないなくなった。ここからはあたしの時間だ!」と叫ぶシーンが追加されていた。真実と虚構の境界線の消失を描いた幻想劇が、このワンシーンで「女性の男性社会への反発」というメッセージの陳腐な舞台に変わってしまった。「とてもおいしい料理を食べたのに、最後に丼の底にゴキブリが入っていた」ような気分で、私は劇場を後にした。


そして、2002年3月、第14回公演予定として「邪宗門」の名前が挙げられていた。初期戯曲「青ひげ」を元に、劇を構成しようとする黒衣と劇を破壊しようとする俳優の対立を主題として、「劇場の中の暴力」を描いた物語である。すでに池の下のレパートリーとして上演済みの「青ひげ」の部分はスタンダードな出来が期待できるが、「劇場の中の暴力」の部分2001年末、「池の下」はその活動を休止し、「邪宗門」の公演は中止になった。

さらば、池の下。寺山修司という「天才」に戦いを挑もうとしたそのドン・キホーテのような勇気には敬意を表するが、その力はあまりに脆弱な、風車の前の人だった。総じて、「寺山の戯曲の忠実な再現」としての魅力はあったが、「単なる何かの再現ではなく、それ自体で一つの世界を創り上げる」ほどの魅力はなかったように思う。それでも、全作品上演を目指すような心意気を持った劇団は他になかったし、このまま上演を続けていれば、いつかは洗練された舞台を見ることができたはずだ。だが、それももう叶わない。 さようなら、池の下。いつかまた会おう。

(2002.11.9)

 P.S.
 2004年3月、演劇集団池の下は「大山デブコの犯罪」の上演で活動を再開するとの情報が入ってきた。喜ばしい限りである。しかし、改めて上記の文章を読み直して見ると、批評っぽい文章にしようとして単なる偉そうな文章になってしまっているのがわかって恥ずかしい。なんかひどいことを書いているが、池の下の寺山芝居は好きですし、「デブコ」も期待してますよ、と、一応フォローを

(2003.12.15)




 

taroneko
映画・演劇・文学の部屋
にもどる