寺山演劇鑑賞日記2 

腕のついたミロのヴィーナス〜美輪演出に思う('00)〜

 

 

 

 美輪明広が好きな人にとっては至高の舞台だったに違いない、と思う。豪華な衣装と演出で生み出される美輪の見せ場、わかりやすく織り成された脚本、隅々まで埋め尽くされた舞台装置。素晴らしいものを見た、言えるだろう。舞台というものが、目で見て楽しむだけのもであるならば、だが。

 かつて寺山は「舞台の半分は観客が作るものである」といった。作り手が作るの半分だけで、残りの半分は観客が自らの想像力によって補うものだと。美輪の舞台は隅々まで満たされてしまっているがゆえに、われわれの想像力が入り込む隙間がない。私が舞台を見るとき、私は舞台上に現実に存在している役者や装置だけを見ているのではない。その隙間に潜む闇を見ている。その闇に無限の世界が浮かび上がる瞬間を「視て」いるのだ。この舞台にはそんな雄弁な闇はなかった。

 台本にしても同じだ。かつてラストの部分に納得のいかなかった美輪に、「せっかくこれだけの作品を書いておいて、ナゼこんなラストにするの」と言われ、寺山は「いや、そんなたいしたもの書いてない」と答えたと言う。この作品に寺山によって明確な結末が与えられていたとして、これほど語り継がれる作品になっただろうか。美輪はこの作品を単純に「子を守ろうとする母の物語」として語ってしまった。だが、物語の謎を全てを語り尽くしてしまって、その後に一体なにが残るというのだろう。

「いひおほせて何かある」とは松尾芭蕉の言葉だ。言葉は言い尽くしてしまったときに果てる。言い尽くさず、言葉を享受する者の想像にゆだねる空白こそが、一句の命ではないかと芭蕉は言っている。この偽りの親子の、憎み合っているようで愛し合っているようでもある、底の見えない互いの感情の危うさこそがこの作品の最大の魅力ではなかっただろうか。人は他人の心、いや自分自身の心さえ全てを知ることはできない。だからこそ、その心の闇の中に何があるのかを考える、想像する。そして自分なりの解答を見出していく。それこそが寺山演劇の魅力だと思うのだが、どうだろう?謎は謎のままでいい。それを考えるのが一番面白いのだから。

 

 

「そしてまたはじめから推理してみましょう。「あたしは誰でしょう」……これが一番面白いミステリーだわ、お互いに」      

(寺山修司「小鷹狩菊子の七つの大罪」より)

(2001.4.6)

 



 

taroneko
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