寺山演劇鑑賞日記1 

泣いたのは誰か?〜二つの『毛皮のマリー』より('83/'98)〜

 

 

 以下の文章は、1998年夏、万有引力プロデュース・篠井英介主演・J.A.シーザー演出のスズナリでの公演と、1983年上演の三輪明広主演のビデオと、二つの『毛皮のマリー』を見比べた後に書いたものです。寺山修司について書き記した、最初の文章。

『毛皮のマリー』は、1968年に演劇実験室天井桟敷の第三回公演のために、寺山によって書き下ろされた作品である。寺山らしいことに、実は完全にオリジナルな作品ではない。   

寺山が、著作『家出のすすめ』の『お母さんの死体の始末』という章で、アメリカの劇作家アーサー・コーピットの『ああ、お父さん、かわいそうなお父さん、お母さんがお父さんを衣装ダンスにつりさげたので僕はとても悲しい』という長い題の作品について触れているが、この作品の筋書きが『毛皮のマリー』にそっくりなのだ。それは「母親により、世の中の醜さから隔離されて育てられた少年の前に、少年を外に連れ出そうとする少女が現れる」というもので、おそらくこの作品を元にしたのは間違いない。もちろん、ただの盗作やパロディーではなく、寺山独自の味付けがなされて全く新しい作品へとして生まれ変わっていることは間違いないだろう。

 

初期の天井桟敷は「見世物の復権」を提唱し、「奇優怪優侏儒巨人美少女募集」と銘打って、特異な肉体をもった人間をオブジェとして展示するような、異形のものによる祝祭的な空間を生み出そうとした。タイトルからして、第一回が『青森県の〈せむし〉男』、第二回が『大山〈デブ子〉の犯罪』である。『毛皮のマリー』もこの系列に属する作品で、題材は「ゲイ」。初演では都内中のゲイバーのママが総出演して、宝塚少女歌劇団よろしく踊ったりしたそうで、アングラ文化のお祭り騒ぎのような感がある。

題名となっている「毛皮のマリー」は同名のシャンソン(「LA MARIE-VISON」)からとられたもので、劇中でも繰り返し流される。

「彼女は金持ちで、鳩よりも羽毛の多い毛皮を着ていた。今は冬でも夏のコートを着ていて、それも虫食いだらけ。酔っ払うと昔のことを話さずに入られない」

歌詞の内容はこのように落ちぶれた娼婦のことをちゃかように陽気に歌った曲で、主人公のマリーの姿と重なる。

 

物語は主人公である美貌の男娼マリーの入浴シーンから始まり、マリーは浴槽に浸りながら、自分の手鏡に「この世で一番の美人は誰?」と問い掛ける。横で控えている下男が「それはあなたです」と答えると、マリーは「まあ、よかった。白雪姫はまだ生まれてないのね」と哄笑し、童話の「白雪姫」を妙にのどかな声で朗読し始める。倒錯した状況の中で読み上げられることで、この童話が内に隠し持っているエロスを感じさせる。

 やがて舞台に、マリーを「お母さん」と呼ばせられている少年が現れる。この少年はもう18になるというのに半ズボンを履かされていて、その純粋さを守るには「いまの世の中は刺激が強すぎるから」という理由で、マリーによって部屋の中に閉じ込められている。少年の楽しみは、マリーが普通の蝶に色を塗って作った珍種の蝶を、部屋の中で追いかけることだけである。だがそれらの珍種の蝶は、実はマリーがただのモンシロチョウに紅おしろいをつけて作った、まがい物である。

要するに、この少年はどこまでもマリーの作り上げた世界に閉じ込められているのである。少年は蝶を標本にすることに残酷な喜びを感じているが、少年自身もマリーの手の中で弄ばれている標本に過ぎない。大空へと飛び立とうとしたオオルリアゲハが、たった2メートル飛んだだけで、雨に濡れて墜ちてしまったというエピソードは、どこへも逃げられない少年の運命を暗示している。ここには、常に家出の思想をかかげながらも、結局、終生母親の影響から逃れることの出来なかった寺山自身の姿が反映されている。

やがてその少年の元に、外の世界から一人の少女が現れる。台本での役名は『美少女』となっているが、J.A.シーザー版、83年版ともに、野太い声のごつい男が、ピンクハウスのようなフリルのついた服を着て、わざと可愛らしい声で演じるという形を取っている。時々急にドスの聞いた声になったりと、ギャップで笑いを取る役柄として考えられているようである。しかし、ただの狂言回しではなく、少年に外の世界の魅力と、マリーの部屋の美しさが欺瞞であることを語り、少年を外へと誘い出すという、物語における大きな役割を担っている。

少女の誘惑で少年の心が揺らぎ始めた物語の後半、マリーが少年を可愛がっていたのは、実は少年の実母に受けた屈辱の復讐をするためで、やがて少年を「セックスの汚物を捨てる肉の屑篭」のような男娼にしてしまうつもりだという、恐ろしい事実がわかる。ショックを受けた少年は、少女の誘いに乗って外への世界へと逃げ出そうとする。 

だが、覗き見た外の世界に少年は厳しい現実を見る。そこは嘘で塗り固められた世界であり、そこでの自分はもっと老けた人間で、本当の母親もとっくに死んでいる。少年はその厳しい世界に怯え、マリーを母親として生きるまがいものの世界にいることを選び、少女の首を絞めて殺してしまう。「汚い、汚い、化けそこなった狐なんか……何も言うな、何もかも見たくないんだ……愛して欲しくなんかないんだ」という少年の叫びが悲しく、虚しく響く。

そして終幕、少年はマリーの呼ぶ一声で、引き寄せれるようにふらふらと現れる。人形のように言うなりなっているその姿は、もはや自らの意志を失った抜け殻のようである。そしてマリーのほどこす化粧によって、少年が少女へと変えられていく美しいシーン。そして、マリーが少年に言う「何で泣いたりしたの」という台詞で物語の幕は閉じられるが、J.A.シーザー版と83年版で、ここの演出は違っている。

J.A.シーザー版では、マリーが自分の復讐に結末に満足するように高らかと笑い、少年は救いを求めるような、涙をこらえた表情でその様子を見つめる。もうどこにも逃げるることの出来ない少年の姿と、それを弄ぶ悪意に満ちたマリーという関係が感じられ、背筋が凍るような戦慄を覚えたものだ。

だが、83年版では、泣いているのはむしろそう言っているマリーのほうである。その涙のわけは、本心では少年を愛しているからなのか、あるいは結局は性別の壁を越えてほんとうの女になることは出来ないという、おかまの悲しみの表れなのか。答えは観客にゆだねられている様である。

 

この作品はたびたび寺山の代表作の一つとして数えられているが、それは後期の作品のような前衛性が少なく、戯曲として完成されているからだと思う。吟遊詩人によるマリーへの賛歌や、寺山節が全開の「自分自身に化ける」、「去ってゆくものはみんな嘘、明日来る鬼だけがホント!」と言った心に残る表現が数多くみられる。また、幾人もの幻のマリーが現れて舞い踊るシーンや、マリーが客の男根の輪郭を紙に写し取ってコレクションするシーンなど、猥雑で倒錯的な美意識がいたるところに発揮されている。それをどう表現していくかが、この作品を上演するときの決め手となるように思う。

 




 

taroneko
映画・演劇・文学の部屋
にもど