演劇レポート集 其の1

さよなら、劇団エレクトラオーバードライブ

 

 

 

劇団エレクトラオーバードライブ Electra OVERDRIVE

1992年劇団飛行天幕として旗揚げ。以後若手ユニット「飛行天幕U-22」として計7回の公演を行う。「U-22」が中心となって「走るバカインテリ」を合言葉に、1996年に劇団Electra OVERDRIVEを旗揚げ。第1回公演「フォーストロール博士の娘」で、第1回早稲田演劇フェスティバルに参加する。独自の身体表現「フィジカル・モーフィング」を標榜し、以後も積極的に活動を行う。1997年「Bathyscaphe」で第2回早稲田演劇フェスティバルに参加、1998年「Bathyscaphe[deeper]」で利賀村主催の第1回学生演劇フェスティバルに参加、1999年「DIGDUG」でパルテノン多摩小劇場フェスティバルに参加。2001年の第10回公演「80世界一日一周」以降、長期の休養期間に入っていたが、2003年3月1日、突然主催者の健康上の理由により解散。

 


 

2003年3月、劇団エレクトラオーバードライブのホームページに、「主催者の健康上の理由により、解散します」という短いメッセージが表示された。7年近く追いかけてきた劇団のあまりにあっけない幕切れに、私は呆然とするしかなかった。それから数ヶ月、ようやく心の整理がついてきたので、これまでの公演を通じての感想をまとめてみようと思う。私が観たのは、全10公演のうちの6つ。それで何かを語るのもおこがましいが、記憶は形にしておかないと風化してしまうものなで、言葉にして残しておきたいと思う。年月が経過しているので、上演内容の記憶に誤りや曖昧な部分があるのは許していただきたい。

 

初めて劇団エレクトラオーバードライブの舞台を観たのは、1996年6月10日のこと。早稲田銅羅魔館(現・どらま館)の第1回早稲田演劇フェスティバルで上演された、「フォーストロール博士の娘」だった。

物語は主人公の姿三四郎のモノローグで幕を開ける。「朝目覚めると悲しい気持ちになる。夢の中で素晴らしい冒険をしたはずなのに、現実に持ってこれたのはこの不思議に切ない気持ちだけ。でもなぜだろう、今日こそは思い出せそうな気がする」と。

姿はカイロ大学の学生である。ある朝、自分の部屋で目覚めると、隣に見知らぬ女性がいた。酔った彼を部屋まで送り、介抱してくれたのだ。姿は大学へ行き、彼女がフォーストロール博士の娘ラヴィニアだと知る。博士の授業の後ラヴィニアと再会した姿は、渋る彼女を口説き、デートの約束を取りつける。翌日、幸せな時間を過ごす二人。だが博士に見つかり、ラヴィニアは連れ去られてしまう。

翌日から博士もラヴィニアも、突然大学から籍を消していた。ラヴィニアに会うために彼女の部屋を訪れた姿は、謎の抜け道があるのを見つける。その中へ進んでいった姿は、そこで迷宮職人のダイダロスという男と出会う。ダイダロスは博士の命令で正多面体の迷宮を作る手伝いをしており、ラヴィニアはそこに閉じ込められているという。ダイダロスと協力して迷宮の中を進む姿。途中博士の手下に邪魔されながらも、何とか迷宮の中心にたどり着く。だがそこで姿を待っていたのは、「ラヴィニアはこの迷宮の核となるべく、博士の科学によって作り出された偽りの存在であり、彼女をここから連れ出せば、迷宮は崩壊し、彼女自身も消滅してしまう」という驚愕の事実だった。苦悩する姿に、外の世界では生きられないと知りながら、ラヴィニアはニッコリと笑ってこう告げる。「連れて行ってください、姿さん」と。

迷いを振り切り、姿は彼女の手を取って逃げる。ここへ来て、冒頭のモノローグの夢というのが博士の創った世界でしか生きられないラヴィニアのことであり、それを忘れることなく現実に持ち帰るというのが、彼女を外の世界へ連れ出すことであるというのがわかる。夢の中で出会った人に、現実で再会することはできない。夢の中で見つけたものを、現実へと持ち帰ることはできない。それでも今日こそは絶対に手離なさずにいてみせると、しっかりと彼女の手を握り締める姿。轟音とともに崩壊する世界。暗転の後、夜のような暗闇に閉ざされていた迷宮は崩壊し、そこに夜明けの光が差し込む。

そしてひとり立ちつくす姿が、また冒頭のモノローグを繰り返す。「朝目覚めると悲しい気持ちになる。夢の中で素晴らしい冒険をしたはずなのに、現実に持ってこれたのはこの不思議に切ない気持ちだけ。でもなぜだろう、今日こそは思い出せそうな気がする」その後ろに幻のようにラヴィニアが現れ、姿に向かって囁くように問い掛ける。

「思い出しました?姿さん……思い出しました?」

 一瞬の沈黙の後、姿は力強く答える。

「忘れちまったあ!」

 

幼い日、人は誰でも夢を見る。大人になってしまったら、もう二度と思い出すことも出会うこともできない夢。「サンタクロース」、「ピーターパン」、「となりのトトロ」、「ゲゲゲの鬼太郎」など、多くのファンタジーの中で、子供の時にだけ出会える不思議な体験が描かれてきた。そしてやがてその甘やかな幻想を失い、諦めとともに現実を受け入れることで人は成長し大人になっていく。それを拒否し幼年時代にとどまろうと戦った者たちは、例外なく敗れてきた。それは姿の場合も同様である。

なんと切ない幕引きだろう。だが不思議と、舞台から悲哀や敗北感は感じられてこない。力強く答えた姿の声が、これで終りではないと告げているからだ。きっとこれからも姿は思い出し続けるのだろう。何度でも、何度でも。それが絶望よりも希望をこのラストに与えている。例え何度夢破れようとも、何度でも何度でも挑戦し続ける者たちがいる。あるいは大人になると忘れて行ってしまう大切なことを、何度でも何度でも思い出し続ける者たちがいる。それは虚しい挑戦なのだが、そんな者たちだけが、ただ諦め大人になっていった者たちとは、別の場所にたどり着けることだってあるのだ。“負け犬の栄光”という、寺山修司の言葉がある。破れてもなお戦い続ける意志、それがエレクラオーバードライブの作品で繰り返し描かれるモチーフなのだ。

 

第3回公演「バチスカーフ」はこの劇団の代表作になった作品で、私のもっとも好きな作品でもある。

主人公のジャック・マイヨールは、引田天功率いるエリートサルベージチーム「ガーベラテトラ」に在籍している。彼らは潜水者にとっての聖地バチスカフィアへとやってきた。海底深くに沈んでいる沈没船「アロマリカリス」の中から、幻の「ダヴィンチの潜水服」を引き揚げることを依頼されたためだ。仕事を開始するまでの休暇の間、ジャックは父の友人で潜水服作りの名人だったというソニー千葉のもとを訪れるが、彼は既に故人になっていた。ソニー千葉の娘すずは、父の発明した高性能の潜水服は木箱に入って海に沈んでおり、カナヅチである自分の代わりにそれを引き揚げて欲しいと頼む。「ガーベラテトラ」の仲間の協力を得て海底に沈んでいた木箱を引き揚げるが、その直後、すずをつけ狙うカンヌ一家に襲われる。何とか切り抜け、木箱を開けてみると、中にあったのは潜水服ではなく、小さなシリンダだけだった。その用途が解明できぬまま、だらだらと日々を過ごすジャックとすず。一緒の時間を過ごす中で、ジャックは自分がすずに恋をしていることに気づく。ジャックはとっておきの「君のキスは海よりも苦しいね」という決め台詞で気持ちを打ち明けようとするが、邪魔が入ってうまくいかない。すったもんだの中で、シリンダがフィルムであることがわかり、映写機にかけることで潜水服が沈めてある場所が明らかになる。そしてついに潜水服が手にする二人。すずは父の形見であるそれを、お世話になったお礼にと、ジャックに譲る。この高性能の潜水服があれば、今回の仕事の「ダヴィンチの潜水服」だって手に入れられるかもしれない。だが、仕事の依頼人はすずを付け狙っていたカンヌ一家だった。やつらに「ダヴィンチの潜水服」を渡すわけには行かないと、仕事の契約期間が始まる前に、ジャックとすずは二人だけで海に潜る。しかし沈没船の中の「ダヴィンチの潜水服」があると言われていた船室は、底に巨大な穴があき、そこにあったものはさらなる海底へと沈んでしまっていた。穴の向こうは真っ暗で、どれくらいの深さがあるのかも分からないし、これ以上深く潜るには潜水服がもたない。もう諦めるしかないと言うすずに、ジャックは答える。

「君のお父さんはここで諦めたから、手に入れることが出来なかったんだ。でももしかしたら、ダヴィンチの潜水服は、この穴のほんのすぐ下にあるのかもしれない」

そう言ってすずの静止を振り切り、ジャックはさらに潜る。激しい水圧がジャックを襲う。もう一度すずに逢えたら、今度こそ想いを伝えたいと願いながら。

暗転すると、ジャックは船上に寝かされており、咳き込みながら水を吐き出して意識を取り戻す。傍らには心配そうに見守るすずがいる。どうやら失敗して浮上した後、すずに介抱されたらしい。ジャックはすずを見つめ、何かを言いかけてやめ、少し躊躇った後に、こう叫ぶ。恐らくほんとうに言いたかったのとは別の言葉を。

「俺じゃなきゃ死んでたぜ!」

 

 この作品において、幻の潜水服を手にしたいという願いも、自分の想いを伝えたいという願いも叶えられない。二つの願いが、クライマックスの深海へと沈んでいくシーンにおいて、いざとなると緊張してしまって気持ちが伝えられなくなってしまう心境を、「手足が震え、動機が激しくなり、言葉がどもってしまう」ダイバーの病気「潜水病」と重ね合わせる描写は見事というほかない。しかし、ラストの主人公の表情にはひとかけらの挫折感もない。「俺じゃなきゃ死んでたぜ」という叫びは、「生きてさえいれば、何度でだって挑戦することができるさ!」ということとほとんど同じ意味だと思っていいだろう。

 

 いつか姿三四郎が、ラヴィニアのことを思い出せる朝が来るだろう。

 いつかジャックが、すずに想いを打ち明けられる時が来るだろう。

 いつかハチスカ侯爵が、また蒸気機関に唸りを上げさせる日が来るだろう

 いつか円谷幸吉が、宇宙へと旅立てる日が来るだろう。

 いつか荻原健司が、旅行王となったクリスティンに出会える日が来るだろう。

 そのとききっと、エレクラオーバードライブも帰ってくる。私はそう信じたいと思う。

だからそれまで、さようなら。

taroneo
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