「人力飛行機ソロモン・松山篇」体験記(2)



   



ロープウェイ街にある珈琲館・赤煉瓦では、12番「注文の多い料理店」が行われていました。「当店は注文の多い料理店となっています。どうぞそのことをご了承の上、承諾書にサインをしてご入店ください」という案内の声に従って入ると、店内では、俳優と観客が交代で宮沢賢治の「注文の多い料理店」を朗読したり、カードゲームをしたりしています。私が入店した時は、カードゲームで負けた女性が、罰としてコップ20杯分の水を飲まされていました。



   



ロープウェイ乗り場では、9番「古典劇のパロディ」が演じられていました。私が行った時はもう終盤だったのですが、シェイクスピアのパロディだったようです。
ここで時間のロスになるから少し悩んだのですが、せっかく松山に来たのだからと、そのままロープウィに乗ってしばし松山城を見学。20分ほどで素早く切り上げて、次の場所へ向かいました。



   

この頃になると、徐々にいくつかの演目が終わり始めているようでした。公園で行われていた5番「審問」という演目はタッチの差で終了しており、観客がいろんな劇の衣装・化粧を体験できる11番「青猫衣装館・青猫化粧館」もすでに閉店していました。

   

通りを南へと走りぬけて、ライブハウス・サロンキティへ。前日は全国ツアー巡業中の犬神サーカス団が来ていたようですが、今日は市街劇の一つが上演されています。マルチオペラ歌手竹林加寿子によるライブ、17番「歌姫絶唱 不思議なトリップ・オペラ=夜鼬魔窟の女魔術師」です。演劇実験室万有引力や月蝕歌劇団の演目の挿入歌(J.A.シーザー作曲)をすばらしい歌声で熱唱されていました。

   


 3番「1メートル四方1時間国家」がその後どうなったのか気になり、もう一度行ってみたのですが、すでに俳優の姿はなく、劇の残骸が放置されて、ラジカセから「青少年のための無人島入門」の曲が流されているだけでした。
「ひろい東京のまん中で 心はいつも無人島 アーアー アアア アー アーアー アアア アー
 背中あわせで生きている 百万人の無人島 アーアー アアア アー」
 もともとこの劇は、最初は1メートル四方の空間の中で演じられている劇が、時間とともに10メートル四方、100メートル四方と劇の演じられる空間を拡大していくというものです。1971年のアーヘム市での上演では、一日の終わり頃には町全体が劇空間の虚構の中に取り込まれてしまい、市内各所で俳優が石畳を剥がしたり、自動車を壊したりし始める―それさえも「劇空間」の中では、犯罪行為や暴力行為ではなく劇の一部にされてしまう―という相当過激なものだったのですが、今回は校庭でのパフォーマンスのみで終わってしまったようです。


   

最後の演目、46番「エピローグ:思想への離陸」は、地図上の黒く塗られた場所の2箇所―松山市民会館と松山市役所―のどちらかひとつで行われるということでした。キャパからいっても、チケットの受付場所になっていた市役所が最終会場ということないと思い、市民会館へと向かってみました。途中で自転車で疾走する俳優さんとすれ違いました。市民会館前にはすでに列ができていて、どうやらこちらで間違いないようです。やがて時間とともに入場が始まりました。
舞台上および客席を、すでに多くの俳優がさまよっていてます。舞台上の櫓の上には、オープニングの時にもいた水平姿の旗振り少年がいます。入場してきた客を捕まえて、「合言葉は?」と尋ねてきます。もちろん合言葉は、ローリング・ストーンズの名曲の一節、「黒く塗れ! Paint it Black!」です。

      


そして開演。映画「書を捨てよ町へ出よう」のワンシーンなど寺山作品コラージュしつつ進んでいきます。J.A.シーザーの音楽が鳴り響く中、舞台上をカラスの群れのように舞い動く黒服の俳優たち。一般公募の参加者も交じっていたのでしょうが、このあたりはやはり、寺山修司直系の演劇実験室万有引力・月蝕歌劇団の面目躍如です。
夏服の学生服の少年・少女の姿で、正岡子規の短歌を織り込んだ詩的なモノローグを読み上げる、月蝕歌劇団の天正彩とあおい未央(天正さんが少年役、あおいさんが少女役だったと思われる)。
トレンチコート姿で「おさらばの辺境一九七〇年十二月一日」を演説し、「昭和精吾さんの後を継ぐのはこの人しかいない」と思わせる男っぷりを魅せる、同じく月蝕歌劇団のスギウラユカ。

「ぼくにとって日本は、一枚の日の丸の旗であった。風に翻る日の丸の旗を仰ぎながらぼくは思ったものだ。なぜ、国家には旗がありながら、ぼく自身には旗がないのだろうか、と。国家には「君が代」がありながら、ぼく自身には主題歌がないのだろうか、と」

独特の声と語り口で、舞台を進行させていくのは万有引力の小林桂太。
一般参加者の少年少女による朗読など、地元色もしっかりと取り入れられています。


   

最後は映画「さらば箱舟」に出てくる写真屋のおじさんの呼び込み口調で、観客・俳優ともに舞台の上に集められて、みんな一緒に記念写真。普通のバージョンと、全員が正岡子規のお面をかぶったバージョンの2種類が撮影されました。とくに後日なりとも配布してくれるようなアナウンスはなかったのですが、この写真はどこかにアップされたのだろうか。青森で上演された際はこの写真撮影で終了となり、「これでは思想への離陸ではなく情緒への着陸じゃないか」と、樋口ヒロユキ氏は著書の中で不満を述べていたのですが、今回はこれでは終わりませんでした。「まだ終わりではありません。どうぞ移動してください」という誘導の声に外を見ると、松山城下に広がる巨大は原っぱの闇に、照明に照らされて浮かび上がる人力飛行機の姿がありました。



   

はひどい土砂降りになっていました。しかし数え切れないほど集まった黒ずくめの俳優たちは、ひるむことなく立ち続けます。雨のせいでマイクの音声もとぎれとぎれでしたが、次々と熱のこもっ劇的な台詞が響き渡ります。下馬二五七、蘭妖子、パンタなどが中心になって叫んでいたように思いますが、はっきりとは聞き分けられませんでした。

「「航空技術の基礎としての鳥の飛行」という書物を書いたリリエンタールが、たった十五メートルの空の高きから墜ちて死んだのは鳥ばかり見ていて空を見なかったからだ。飛ぼうとする者は、何よりも空を見抜かねばならぬ」


   

最後の台詞が終わると、俳優たちは走り去るようにして夜の闇の中へ、あるいは街の雑踏の中に消えていきました。後には飛び立たなかった人力飛行機だけが取り残されています。ラストシーンに関しても、1971年のアーヘム市での上演では人力飛行機を炎上させて終わったのですが、今回はないようです。人力飛行機を飛ばすのは観客一人一人の想像力ということなのか、それとも今の時代に人力飛行機はもはや飛ぶことができないという皮肉なのか。俳優が去ったあともJ.A.シーザーの音楽だけは流れ続けていたため、「寺山修司の芝居にカーテンコールはない」ということを知らないであろう多くの観客たちは、戸惑うようにしてそこに立ち尽くしていました。しかしもはやこれ以上何も起こらないということを悟ったのか、やがて少しずつ少しずつ帰り始めました。俳劇は劇の幕を引かない、この劇の幕は観客自身が自分の手で引かなければならないのです。私も劇の余韻を十分にかみしめると、その場を後にしました。

一日を総括してみると、想像していた以上にわずかしか回れませんでした。時間通りに始まらなかったり、時間前に終わってしまったり、満員で入れなかったりといったものもあり、最後は時間との戦いで、次々と終わっていく劇に間に合わず、為すすべなしといった感じでした。寺山修司は「観客は常に劇の一部しか知ることができない、我々が常に世界に対してそうであるように」と言っていますが、なかなかそこまで寛容になれず、「できるなら全部の劇を観てみたかった」と思ってしまうが人の欲というものです。もう少し要領よくできなかったのかが少し悔やまれますが、それでも松山まで行った甲斐は十分にありました。それこそ10年に一度味わえるかどうかの劇体験でした。どうにかうちの地元でもできないものかと思います。
どのれくらい観光的効果があったのか、どれくらい市民の理解が得られたのか、どれくらい寺山の意思を継承していたのかなどいろいろと疑問は尽きませんが、それはまた別の機会に。

参考資料
寺山修司「寺山修司の戯曲7」(思潮社)
樋口ヒロユキ「死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学」(冬弓社)





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