記憶と社会と自己
〜寺山修司の映画『さらば箱舟』より〜




1984年に公開された映画「さらば箱舟」は、監督した寺山修司の長編第四作にして、遺作となった作品である。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を原作としつつ、沖縄を舞台として、ある村の百年間の変遷を扱っている。寺山修司は青森県出身で、早稲田大学を中退。60年代から70年代にかけてのアングラ文化の隆盛の中で、前衛芸術家として短歌・演劇・映画・競馬エッセイなど様々なジャンルにわたって、攻撃的で領域的な活動を展開した。演劇実験室天井桟敷を主宰したことでも知られ、この作品にも実験的・演劇的な要素が散りばめられている。ここでは「さらば箱舟」(新書館,1984)のシナリオを中心に扱っていく。東北といういわば辺境の地で育ったこともあり、その作品には土俗的社会と近代的社会の葛藤というモチーフが色濃く浮き出ている。

〈ストーリー〉

 沖縄の何処かの森にある小さな村での話。村の本家の時任家の跡取息子の大作は、少年の頃、本家の柱時計を除く村中の全ての柱時計を盗み出して埋め、「時間」を本家だけのものにした。数年後。時任家の女スエといとこの捨吉は愛し合っているが、「いとこ同士で結婚すると犬の顔をした子供が産まれる」という言い伝えのために仲を認めてもらえずにいる。二人は夫婦の誓いを交わすが、スエが貞操帯を填められているために、捨吉はスエを抱くことができず、村人には不能と噂されている。大作が女中のテマリを抱いているのを見たりして、捨吉の煩悩は募っていく。

 ある祭りの日、恒例の闘鶏で、大作のシャモが連戦連勝していた。そこへ捨吉がシャモを持って現れ、勝利を得る。悔し紛れに大作は捨吉を不能と馬鹿にし、その場にいた村人は大笑いする。怒りに我を忘れた捨吉は、包丁で大作を刺し殺してしまう。捨吉とスエはその夜のうちに家を逃げ出し、途中ようやく辿り着いた空家に泊まるが、翌朝になるとそれは逃げたはずの自分達の家だったことがわかる。いつのまにか村に戻ってきてしまっていたのだ。それ以来捨吉は大作の亡霊に取りつかる。捨吉は大作の亡霊に悩まされるうちに、ものの名前を忘れてしまう病にかかる。村の空き地には突然、冥界へとつながる穴が出現する。村人たちは死人に手紙を書いて、穴の中に郵便配達夫を送り込む。

 本家にはツバナと名乗る女が子供を連れて現れ、「自分の息子のダイは先代の双子で、もう一人の本家の跡取りだ」と主張して、跡取の大作が死んでしまった本家に、我が物顔で住み着く。女中のテマリは大作の死後頭がおかしくなっていたが、ダイに犯されて子供を妊娠する。
 ある日、スエは商人から柱時計を買う。しかし、「時計は一つだけで十分」と考える村人達が壊しにきて、乱闘騒ぎの中で捨吉は死んでしまう。その夜、奇跡のように突然スエの貞操帯が外れる。そこへ言い寄るダイ。遠い昔に大作に埋められた柱時計が幻聴のように鳴り出す。

 さらに時間がたち、テマリとダイは隣町の存在を知り、本家を捨てて二人で旅立つ。さらにある日、死んだことになっていた本家の米太郎が村に姿を現し、本家の壁の中から金貨を見つける。その頃には村人たちはほとんど隣町へ旅立った後である。人影のなくなった村で、スエは空き地の穴に身を投げる。百年後、かつて空き地だった場所に村人たちが再び集まってくる。彼らは皆現代人の格好をし、記念撮影する。ゆっくりと色褪せていく写真。彼らは皆、現代人の服装をして死を生きているのである。


1.二人のキャラクター〜大作と捨吉

 寺山作品では、換喩的な表現(メトニミー)が多く使われる。「柱時計=時間そのもの」、「遺影=生きている人間を束縛する先祖代々のしきたり・伝統」といった感じである。
 
大作は、村人の時計をすべて壊してしまう。それはさながら、ファシズムが焚書を行って体制に対立する主義・思想を抹殺したのに似ている。本家の時計は唯一絶対の存在、唯一の尺度として村人の生活を規定する。本家によって支配される村という共同体は、強力な父権としての大作を中心にして形作られる擬似家族である。独裁的・絶対的な家父長制度による家は、秩序を脅かすものを排除する。村(家)の掟に背き、いとこ同士で結婚しようとする捨吉とスエは、家の秩序を乱すものである。スエが捨吉の子を産み、秩序に反するような新たな家族を作ることは貞操帯を付けられることによって、封じられる。
 
また、大作(ダイ)と捨吉の関係は、分身殺害譚あるいは父殺しの物語としても読み取れる。
大作:本家の跡取りとして権力があり、女も好きなように抱ける(中心的存在)
捨吉:旅芸人に生み捨てられ、35歳にもなって独身、不能と噂される(周縁的存在)
 →互いに対立する存在で、互いが歩んでいたかもしれない、もう一つの可能性でもある

スエ「(気を取り直して)おばばの言うとった。『まともな赤ん坊を産まないうちは、どこの人間というわけでもない』って」            (シーン45 一軒家)

 捨吉、大作を刺し殺してしまう。それは村世界の中心的価値観の喪失であり、大作という共同体の父権に取って代わって捨吉自らが父になるための父殺しである。しかし、子供を作ることのできない捨吉は新たな父権へと成長することができない。父権の獲得に失敗した捨吉は、スエともに村から夜逃げして、外の世界に新たな価値観・世界を見出し、新たな家族を作ることを求める。しかし村の外の森には闇だけの世界が広がっている。それはこの村がその他の世界・価値観が存在しない閉じられた世界であることを意味する。結局捨吉はこの閉じられた世界から逃れられず、新たな家族の作ることは失敗の終わる。そして自らが基盤を崩した、父性を欠いた不完全な状態で継続している既存の家族社会の中で生きざるをえない。
 やがて捨吉は、大作という中心の外部の対立項として自分がいたことを感じ取り「分身となる存在を殺した」という意識が強くなり、捨吉は大作の亡霊に取り憑かれてしまう。事あるごとに現れる大作とコミュニケーションを取るうちに、捨吉はスエを抱くことに執着しなくなり、大作の亡霊に対して兄貴に対するような親しみを感じ始める。子を作り父となって新たな家族を作ることを諦め、大作という父性の死によって崩壊の始まっている既存の家族の中に回収されていく。捨吉は、名前を忘れる病になり、徐々に退行化していく。死んだ大作という分身と和解し、同化するが、それは捨吉の死を意味する。


 部屋の中のあちこちに、捨吉によって書かれた備忘のための名前が貼られている。例えば、「竈」「戸口」「床」「柱」「鍋」「桶」「葉」「水」「豚」「暦」「箸」。それらに埋もれるようにして、捨吉が眠りこけている。疲れきったのか安心してか、筆を握りしめたままである。その胸には、「俺」と書かれた名札がぶら下げられている。
     (シーン63 分家・板の間)

 人間が存在すると言うことは、自らが名付けられて社会的存在となり、周囲のものを名付けることで、自分と区別して対象物を認識し、自らも個的存在として認識することである。記憶の喪失は社会的関係の喪失であり、自分自身を認識するアイデンティティーの喪失でもある。
  
例.捨吉、「鶏肉」という名札を貼ったチャボを食べようと追いかける
  大作、死んだことを忘れている→死者と生者の区別が消失/他人と自分の区別が消失


捨吉「これは『クツ』だ。まちがいない」
大作の亡霊「しかし捨吉・・・靴が何するものか、お前、それを忘れたんじゃないのか」
捨吉「・・・」

大作の亡霊「靴は足に履くんだ、米を炊くものじゃない」

捨吉「(はっと我に返って)待ってくれ、大作・・・書いておこう」

 捨吉は真剣な顔つきで刷毛に墨汁をひたす。大作の亡霊は、芋をかじりながら子供に教えてやるように靴の使い方を告げる。

捨吉「コレハ、靴デアル・・・」

大作の亡霊「コレハ、靴デアル。外ニ」

捨吉「外出スルトキ、足ニハクモノデアル」
大作の亡霊「飯ヲ炊クモノデハナイ」
 捨吉は大作に言われたまま紙に書き、何度も口にしていってみる。
 
大作が、笑って「正しい」とほめてやると、ニッコリと捨吉が微笑む。   (シーン68 分家・土間)

 
大作の亡霊と捨吉はまるで兄弟のような関係になっていく。擬似家族から疎外され、その中心を殺した捨吉が、亡霊となった大作のもとで家族に回収されていく。
分身としての大作に近づいていくことで、自らも少しずつ死んで行き、文字や言葉や記憶を忘れることで、社会的な存在も消えてゆく。
家族のぬくもりの中で、胎児の状態へと帰っていき、生まれる前の無の状態〜原初の状態へと進んでいく。

 一方で、全く別の読み方も出来る。すなわち、名前や用途はその社会で任意に決定されているもので、絶対的なものではなく、存在その物と等価値ではない。常に置き換えが可能なものである。そのすべての価値を消失させたところから、新たな価値を作り上げていくと見方だ。ダイは、名前を忘れたものに、改めて名を書いた紙を貼る。それは自らの手で改めて存在しているものに意味を与えて作業だともいえる。スエが旅の商人から柱時計を買うのも、自分達だけの時間・価値を外部から取り入れることでもある。
 しかし、新たな家族を作ろうという意志があったにしろ、村という共同体からの突然の暴力乱入によって、捨吉は殺されてしまう。
 もはや捨吉の死で家を築く可能性を完全に失ったスエは、再び貞操帯をつけ、滅び行く村(共同体)と運命を共にし、穴へ身を投げて死ぬ。

2.擬似家族としての村
 
舞台となる村は、他の村から隔絶され、本家の時計の一つの価値観・時間によって支配されている前近代的な共同体である。

本家の柱時計の針がピクリと震えて二時を指す。心配そうに柱時計を眺めていた蝋燭屋の茂吉が、外で待たせておいたグミに知らせてやる。
茂吉「二時だ」
グミ「えっ・・・何時だって・・・?」
茂吉「二時だ・・・昨日と同じだ。何も変わっちゃいねえ」

グミ「・・・」
茂吉「安心したか?」
それでも、グミは何やら不審そうである。        (シーン67 本家・板間)

 固有な時間の営みによる新たな経験・記憶の獲得が自己を形成していく。本家にだけ時計があって本家に行かないと時間がわからない状況では、新たな生活体系を持った時間を作り出せず、昨日と同じ生活を繰り返すしかない。変わらない日常の中で、「時間の流れ」の意味が薄れていく。大作は共同体の中心であり、その死後も「不在の大作」を中心とした秩序が不完全な形で維持される。

 村では伝統や代々のしきたりが生きる者を束縛し、死者によって生者が規定されている状況にある。(例.スエと捨吉、犬の子が産まれるという古い言い伝えから結婚できない/スエ、死んだ父につけられた貞操帯をはずしてもらえない)
 村の空き地にも突然冥界につながるという巨大な穴があき、死者との意思のやり取りが可能になったりする。そのため、大作は死後も変わらず村の中心としてあり続ける。

 ダイの出現が、そこに変化をもたらす。突然現れた跡取り候補によって、すでに死んでいる大作の父性が崩壊し、ダイを中心とする新たな秩序が形作られようとする。ダイはまず商人から柱時計を買った捨吉の家を襲撃する。捨吉は一方で大作の亡霊という過去の父性のもとにあり、一方で個人の時計を持って擬似家族の秩序を脅かす存在である。捨吉は殺されて、新たな家族の生まれる可能性がなくなった瞬間、はじめてスエの貞操帯がはずれる。

大作(死)・捨吉(生きながら死んでいるような状態)←→ダイ(生)

 しかし、村を維持すべきダイは、周囲の期待に反し、厳格な中心存在としての父性となろうとしない。自分の感情に従って自由に生きる現代的な若者である。村人に「村に二つも時計があったらどちらを信用したらいいのかわからない」と煽られて捨吉の柱時計を壊すのも、父性としての自覚からではなく単なる気まぐれでしかない。本家の時計が止まり村人があせっても気にとめず、絶対的でなければならないはずの価値観の動揺を補修しようとしない。やがて、隣村の存在が明らかになり、電線が通ることで、唯一絶対だった本家中心の村の存在が揺らいでいく。それは新たな価値観が出現し、絶対的価値が支配する村落共同体社会から無数の価値が存在する近代社会への移行である。

 
ダイは先頭にたって隣村に移住してしまい、村の中心存在としての父性はあっけなく失われる。擬似家族は崩壊し、村人も次々といなくなる。かつて本家を出奔し、腕時計をした近代的ないでたちで戻って来た米太郎は、もはや集団の一人に過ぎなくなっており、本家の壁からその遺産が見つかっても、新たな村の中心としての力は持たない。やがて村には誰もいなくなり、共同体は完全に崩壊する。
 そして近代化の進展の速さのすさまじさを物語るように、突如として時間は百年後に飛ぶ。近代化された都市に生きる村人たちは、個人化された生活を獲得している。村人達は集まって記念撮影をするが、写真機に灼きつけられたその姿は次第に色褪せていく。いつの間にか服装が百年前村で暮らしていたときのものになっている。写真は、人々の姿を焼き付け、停止した姿で保存する。それは永遠に変化しない、死の隠喩(メタファー)である。 村落共同体によってつくられた世界が、過去の遺物になった(死んだ)ことを示し、物語は幕を閉じる。


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