総合講座レポート〜マルチメディアは文学を変えるか?〜

マイケル・クライトンの文学的特性

 

 

マイケル・クライトンは著作のほぼすべてが映画化されている、アメリカの超人気作家である。彼の作品とそれにまつわる事象を通して、現代における文学ジャンルの変容と、小説というメディアの持つ特性について語ってみたいと思う。

 

クライトンの小説の特徴は、正確な科学的・社会的考証、スマートな筋運び、現代社会における問題点の把握などが挙げられる。その特徴が大きく発揮された最初の作品が、1969年発表のSF小説『アンドロメダ病原体』だったように思われる。無人衛星が宇宙から持ち帰った未知の病原体の感染により、地球上の人類が危機に瀕するというストーリーは、発表当時がアポロ11号の打ち上げ直前だったこともあって、大きな反響を呼んだ。

「突如日常生活の中に現れて、人々を恐怖に陥れる未知の病原体」というスリル感あふれるモチーフは、最近では『12モンキーズ』(1995年、米)、『アウトブレイク』(1996年、米)といった映画でも描かれているが、いわばそれに先鞭をつけたのがこの小説だった。発表後30年近くを経過してもなお、そのリアリティーが迫真性を失っていないのはさすがであり、クライトンの先見の明の表れであると言える。

たとえばこの小説の中で、研究所のコンピュータのディスプレイに、血液検査の項目がずらっと列挙されるシーンがある。当時は人々の度肝を抜いたシーンらしいが、最近では人間ドッグの検査結果などでも同じものを目にすることができる。『フランケンシュタイン』の物語を換骨奪胎する形で書かれた1972年の小説『ターミナル・マン』のなかでも、現代におけるコンピュートピアを予見したような世界が描かれている。

物語の記述の要所要所に、専門的な理論の解釈や図表・写真などを織り込んで、まるでノンフィクションであるかのような作品を仕上げていく彼のスタイルは、クライトンという一つのジャンルを誕生させたようにさえ感じられる。彼はまさしく、テクノロジーとともに生きてきた作家なのである。

ジュール・ベルヌやH.G.ウェルズによって生み出されてから百年余りで、SF小説は一大ジャンルを作り上げた。テクノロジーの発展の中で、これからも小説は新たなジャンルを生み出し続けるのだろう。

 

さて、彼の作品の特徴が発揮された現在における到達点といえる作品が、1990年発表の小説『ジュラシック・パーク』だった。コンピュータによる図表などが作中でふんだんに使われ、完璧なはずの管制システムが徐々に破綻していく様を描く、緊張感あふれるサスペンスとなっていた。そのリアリティーのすごさは、映画監督のスティーブン・スピルバーグをもって、「これはサイエンス・フィクション(科学的空想)ではなく、サイエンス・イベンチュアリティ(科学的に起こりうる事態)だ」と言わしめるほどのものだった。また同時に、科学に対する人間の傲慢さを痛烈に批判するメッセージが込められた作品でもあった。

『ジュラシック・パーク』は1993年に映画化され、その当時、世界の映画史上歴代1位の興行収入を打ち立てる大ヒットとなったが、原作の小説とはその雰囲気は大きく変わっていた。映画では恐竜たちの造詣をいかにリアリティあふれるものとして作るかにのみこだわっている。ここに、小説と映画という表現のジャンルの違いがある。

たとえば小説の中に、登場人物の一人ネドリーが、毒の唾を吐く恐竜に目を潰され、身動きの取れなくなったところを襲われるシーンがある。

「恐竜はもうすぐそこだ。近づいてくるのが気配でわかる。なのに、何も見えない。何も見えないことで恐怖は極限に達した。襲ってくるに違いない鉤爪を払いのけようと、両手をめちゃくちゃにふりまわした。ふいに唾の痛みとまったく異質の痛みが腹に走った」

ここで読者は、この目の見えなくなったネドリーに感情移入し、完全な暗闇の中で襲われる恐怖を想像する。しかし映画では、人物の内面の心理まで描くことは難しい。映画ではこのシーンはこんな風に変更されている。

目の見えなくなったネドリーは、どうにか手探りで、近くにあった車の運転席に逃げ込む。ドアを閉め、ほっと息をつくネドリーの顔のアップが画面に映ったとき、不意に間近から鳴き声が響く。はっとネドリーが顔を上げると、助手席側から侵入した恐竜が、今まさに彼に襲いかかろうとしている。ここで画面は周囲のジャングルから車を映し出す形に切り替わり、内部の見えない車から、断末魔の叫び声だけが大きく響きわたる。直接的に恐竜に襲われるシーンを描かないことで、逆に凄惨なシーンの想像力をかきたてるのである。

メディアの違いというのは、作家の創作行為にとってかなり大きな意味を持つ。『ジュラシック・パ―ク』の映画化においては、登場人物の性格など、多くの部分で変更がなされた。このことに対して不満はないかとの質問を受けたとき、クライトンは冗談めかして「自作を自分で映画化して監督するときも、原作者の自分に対立して監督の立場から文句をつけたくなることがある」と答えた。実際この映画化の際も、スピルバーグの依頼で第一稿のシナリオだけはクライトン自身が手がけたが、それ以降のすべての作業は映画の専門家であるスピルバーグに任せてしまったそうである。結果、映画は小説とはまったくの別物になったが、原作と寸分たがわない形で映画化さていたら、きっとあれほどのヒットにはならなかっただろう。

 

最近、小説・映画・漫画・アニメーション・TVドラマなど、人気作品のメディア・ミックスが盛んに行われているが、それぞれのメディアの特性に応じた魅力が発揮されなければ、「作品」としての意味をもたないだろう。文学という言葉だけの世界でしか表現できないものがかならずあるはずで、それは映画や演劇などのジャンルでも同じである。独自の魅力を追求することこそが、マルチメディアの時代においてそれぞれのジャンルが生き残っていくための道だと思う。