人文研究レポート〜異文化コミュニケーション論〜



 

其の1 沖縄の御嶽〜祭神のいる処〜


はじめに

数年前の夏、テント泊で八重山諸島をまわった。そして波照間島では、軽い気持ちで神杜の裏手に泊まった。しかし、翌日「ここは神聖なお宮なのになんてことをするんだ」と地元の人のお叱りを受けた。沖縄では土俗の信仰が根強く残っているから、うっかりそういう場所にはいるとまずいということや、神杜が御嶽とよばれていることは全て帰ってきてから知った。他の国の文化と接するまでもなく、異文化は常に我々の身近に転がっている。それは方言の違いや習俗の違いなどで、しばしばいざこざの原因になる。この体験を機に、本土の神杜と違う形で残っている沖縄の御嶽というものについて調べ、感じたことを記していきたいと思う。

 

1 御嶽(みたけ)について

 

沖縄における共同体の祭りは、御嶽を中心に営まれる。御嶽は、村落の守護神のまします聖域であると考えられている。村ごとに必ず一つ以上の御嶽があり、御嶽を中心として神と係わる祭りや村落共同体のいっさいの社会活動が営まれてきた。御嶽にはその核となる、もっとも聖なる場所としてイビ(威部)がある。イビには大きな岩や大木があるだけだが、ときには香炉が置かれていることもある。香炉はイビヌメー(威部の前)に置かれることが普通である。

ここで御嶽の構造を、八重山の御嶽(オン)を例にとって説明すると、まず、オンは神のまします聖域であり、人の住む生活空間と区別されなければならない。オンには木々が生い茂り、森を成しているのが普通である。オンは低い石垣で囲われおり、その正面には入口が開いていて、八重山のオンではそこに鳥居が立てられている。そこに入ると、庭に出る。ここは奉納芸能が演じられる神庭である。神庭の奥手に家屋があるが、これはふつう御嶽家(オンヤー)、または拝殿と呼ばれる。オンヤーの奥処にも庭があり、イビのある聖域への門口へいたる。この門口の前をイビの前(イビヌマイ)と称する。オンヤーのないオンでは、神庭→イビの前→イビという構造になる。オンは原則として男子禁制であるが、山人数と呼ばれる祭祀集団だけはその限りではない。しかし、山人数とてイビヘ入ることは許されず、オンヤー、あるいはイビの前で祈願を行う。イビの前とイビのある空間とは石垣等で仕切られている。イビは、聖域中の聖域であり、オンの神が来訪し、座するところである。イビに入れるのはわずかに司と呼ばれる神女とその補佐役だけである。

御嶽の構造について宮城真治は、その著『古代沖縄の姿』にて、沖縄古来の神道と日本本土の神道とが根源を同じくする物として、比較図を載せてその類似点を紹介している。

 

2 祭祀芸能の場として

沖縄の芸能は、農耕杜会を背景とするところに特徴がある。農作物の豊穣に感謝し、新たなる年の豊穣を予祝するため、遠来の神をことほぎ、歓待する場に芸能の芽が育まれたわけである。

村を訪れた神は御嶽に座することになるので、神に奉納する芸能の舞台も御嶽の内に造られる。それが一般的にいわれる神庭であり、あるいは、八重山でバンクと呼ばれているような、神庭の一角にしつらえられた桟敷である。そこで、村人によって演じられた神歓待の芸能が、沖縄の民俗芸能の源流になっている。

まず最初に、神々の呪縛のなかにあった古代祭祀のなかに、生産を意味する模傲儀礼などをふくんだ芸能のきざしがあらわれ、そこから、すこやかな村人たちによる神歓待の民俗芸能が生まれ、それを基盤にして高度に洗練された宮廷芸能が生まれる、と言う発展段階があったように思われる。しかも、その祭祀芸能、民俗芸能、宮廷芸能の三様が同時代に共存し、現代まで生き続けているということもまた、沖縄における伝統芸能の特徴である。伝統芸能の例として、次のようなものがある。

村芝居と長者の大主(うふしゅ) 

収穫を終えた村村では、今年の豊穣に対する感謝と来年の豊穣を祈願する祭りが行われる。いわゆる豊年祭である。沖縄各地では旧暦八月十日前後に催されるが、その主要な構成要素は村芝居と八月遊びである。「遊び」は、御嶽に来訪したかみを歓待する神遊びことで、遊興の遊びのことではない。この「遊び」は、仕込み、正日、別れの三日にわたるのが一般的で、正日が「遊び」の本番に当たる。村芝居の演目は、「長者の大主」からはじまり、「稲摺狂言」「若衆踊」「二才踊」「女踊」「狂言」「組踊」と続くのが普通である。

巻踊

巻踊は八重山の諸祭祀(豊年祭、節祭、結願祭、種子取り祭など)に、村の御嶽の神庭で踊られる。臨時の雨乞い、祝宴などにも踊られる。名称は、舞踊集団が渦を巻くように円陣で巻き、踊ることから来たと考えられる。石垣市四箇村の豊年祭のムラプーリィでは、真乙姥御嶽(まいっば一お一ん)の神庭で各村の婦人たちによる真乙姥神への奉納芸能として踊られる。円陣は左回りに旋回する。この円陣が解かれるのは、踊りが終末部に至って最後のハヤシ・掛け声と同時に一同が渦の中心に蝿集し乱舞となったときである。この乱舞はガーリと称している。

 

3 長田御嶽について

 

波照間において我々が泊まってひんしゅくを買った御嶽は長田御嶽と言う名前で、長田大主(ナータフヌシ)の生誕の地だった。彼は500年ほど前・琉球王朝に半期を翻したオヤケアカハチ(同じく波照島の出身)のライバルだった人物である。

波照間の歴史において、部落の成立と御嶽の創設との間には深い関連がある。御嶽には、島を挙げての全体的な規模の祭祀の折に機能する部落の御嶽の他に、一族の祭祀の折に機能する一族の拝所(御嶽)がある。後者には二つのタイプがあり、@祖先の墓がそのまま後世において拝所となったものA墓ではないが、祖先が居住していた屋敷跡とか、何かいわれがある場所が拝所となったものである。長田御嶽は、後者のAが、時代とともに前者に移行していったものと思われる。

慶田城と長田大主

西表島祖納の慶来慶田城用緒は、石垣島の北端平久保村の豪族平久保按司を討つと、その足で石垣村の権力者だった長田大主を訪れる。そこで結んだ同盟が、その後の八重山暦史を開いていく契機となる。

15世紀から16世紀に至る間の宮古、八重山の関係は、進んだ宮古、遅れた八重山という構図の下、宮古豪族の八重山進出が起こっていた。宮古勢カとの連合は、当然八重山内の覇権と関係してくる。長田大主が「宮古島忠導氏の後胤」とされるのも、その間のことと無縁ではない。宮古との親交、交易権を手中にすることは、八重山の政治支配のために不可欠のことであった。慶田城の平久保討伐、長田との同盟も、この文脈で考えれば、まずは交易権、交易路の確立のためであったとすることができる。そしてこの同盟軍との対立を直接の原因として、1500年にオヤケアカハチの反乱が起こるのである。

 



まとめ

創世の神話として、波照間島には次の様な説話が伝わっている。

昔、波照間は自然の恵みを受けた平和な島だった。しかしあるとき、油雨が降りだして人々は皆死に絶え、島には生類は存在しなくなってしまった。ところが二人の兄妹だけが、島の美底の洞窟に籠っていて油雨の難を避けることができた。やがて二人は結婚して子供が産生まれた。最初の子はボーズという毒魚に似た子で、次の子はムカデのような子であった。夫婦は子供が生まれるつど住所を変えて、富嘉部落の保多盛家のある場所へと移動してきた。そして今度はほんとうに人間らしい子が生まれたので、ここに居処を定め生活することになった。こうして波照間島は再び、ここから新しく興ったのである。

この説話はいわゆる兄妹始祖型の洪水神話で、島の創世を兄妹の相姦から説いており、日本のイザナギ・イザナミ神話と同型だといわれている。そして、この同様の創世の説話は奄美から八重山に至る南島文化圏の島々に広く分布しているのである。このことを考えたとき、これらの島の一つ一つが、小さな国であり、小さな神を持っているというイメージが浮かび上がって来るだろう。沖縄には一つ一つの島に根づく、我々とは違う文化が存在する。コミュニケーションに齟齬を生じさせないようにするためには、例え同じ日本を旅するときであっても、そのことを心にとめておく必要があると思う。

 

≪参考文献≫

外間守善「沖縄の歴史と文化」(中公新書)

平敷令治「沖縄の祖先祭祀」(第一書房)

宮良高弘「波照間民俗誌」




 

 

其の2 手話という視覚言語

 

マーガッレトはその手の動きを呆然と眺めて機械的に訳していった。彼が普段使う荒っぽい手話と、今使っている滑らかで説得力のある言語の流れの違いをどのようにすれば表現できるかと迷っていた。その手話は型通りで完全であり、牧師の手にも見たことのないほどの優美さと繊細さを備えていた。そこには一種のリズムがあり、詩か歌を朗唱するような手指の動きがあった。これは誰のためであろうか。彼女一人のための雄弁ではなかったのか。

                (ハナ・グリーン著『手のことば』より)

 アメリカの作家、ハナ・グリーンの『手のことば』という小説は、ろう者の両親とその間に生まれた健常者の「聞こえる」娘の3人の家族の、50年に渡る生活の交流を綴った物語である。健常者である娘のマーガレットは、手話も発話も出来るものとして、何も聞くことのできない両親と、聞こえる世界との、橋渡しとしての役割を背負うことになる。それは二つの異文化間のコミュニケーションの物語でもある。冒頭に引用した文章は、マーガレットの夫の家族が、初めて彼らの家を訪れた場面からの引用である。両親は「聞こえる」人々の訪問の戸惑い、手話を使うことを恥ずかしがって長く沈黙を守っていたが、ついに娘のために勇気を振り絞って、自分たちの「ことば」で話し始める。

 ここには手話が熟練者の手にかかると、最も美しい、表現力に溢れた言葉となる例が示されている。強く激しい感情を伝えるのに、手話ほど適した言語はないとも言える。通常我々は手話を、しゃべることのできないろう者が、音声による「発話」の代わりに使う代価物としてのみ捉えている。しかし、手話について少し調べてみれば、それがただ言語を手の動きによって表現しただけのものではなく、発話とは使用媒体(モード)を異にする、全く別の視覚言語だということがわかるだろう。

 手話は発話と比べて遜色なく、同じくらい厳密な伝達や詩的な伝達〜たとえば哲学的な分析や愛の語らいなど〜ができる。しかもそれが、時には発話よりも容易にできるのである。発話では何百もの異なる言語構造を一瞬のうちに調整しなければならないが、手話では比較的単純で緩慢な筋肉の動きだけで表現できるからである。実際ろうあの赤ん坊の場合、生後4ヶ月で「ミルク」の手話を使えるようになるのに、同時期の健常者の赤ん坊は、泣きながら周囲を探し回るしかできないそうである。

 手話はそれが表す対象の忠実なイメージであり、絶えず観察や分析を行う癖をつけてくれるので、何かの概念を正確に伝えたり、理解をいっそう深めたりするのにとても適している。

 また、手話はとても生き生きとした表現力を持っており、創造力をはぐくんでくれる。たとえば「歩く」という手話は、日本では二本の指を二本の足に見立てて交互に動かすことによって表現する。普通に動かせば歩くという一般的な意味になるが、動かし方によってゆっくり歩いている状態や、千鳥足で歩いている様子も表わせて、その変化の程度も文脈や使用者の意図によって自由に変えられる。

 他の言語には、このようにある一つの単語の形を変えることで、基本的な意味に新たな意味を付け加えていくということはできない。手話の場合は心的態度の表現も、手の動きの大小・遅速・強弱などで容易に表現できる。同じ「遅い」という手話を使うときにも、怒っているときは速く強く手を動かすだろうし、呆れてうんざりしているようなときには、ゆっくりとした動きになる。そのときどきの使い手の微妙な感情が、手の動きに反映されるのである。

 

 ノーラ・エレン・グロ−スは、理想的な手話の(ろう者の)コミュニティとして、その著書『みんなが手話で話した島』で、その少数集団の住民のうちのかなりの数が遺伝性の聴覚障害であったヴィンヤード島のことを紹介している。

19世紀半ば頃には、この島のいくつかの村では四人に一人の割合で聴覚障害が発生していた。この島では島民のすべてが手話を覚えることで、この状況に適応した。そのためろう者は健聴者と自由に交流でき、障害者としてみなされることもなかった。むしろろう者であればろうあ院で教育を受けることができたため、教育程度が高く尊敬されていた。興味深いことには、1952年に最後のろう者が島を去った後でも、健聴者である島民たちは特別な場合〜猥談や、教会でひそひそ話をするとき、離れた船と船との間で話したいときなど〜はもちろん、ありふれた日常の場面でも、ときには話の途中から知らず知らずのうちに手話を使ってしまうことがあったという。

 これは手話がそれを学んだ全ての人間にとって自然なものであり、発話をしのぐことさえある本物の美点と長所を備えていることの証明であろう。また第一言語として手話を学んだ場合、聴覚や発話に何も障害がなくても、脳と精神がその後もずっと手話を保持し、使用し続けるという。

 

1950年代後半、ウィリアム・ストーキーは手話が語彙目録・統話法・命題を無限に生成する機能の点で本物の言語に必要な基準すべてを満たしていることを証明した。手話が見た目では音声言語とまるで違って見えたり、かつて言語とみなされて来なかったのは、手話単位の要約や修飾がすべて空間でおこなわれるからである。発話は線条的・連続的・経時的に現れる多くのものが、手話では同時的・共在的・重層に現れる。はじめ手話の表層はただの身振りやマイムのように映るかもしれない。しかしやがてそれが幻想であり、一見単純に見えるものが、三次元の広がりの中で相互的に織り込まれた無数の空間パターンで構成されたとてつもなく複雑なものであることがわかる。

ストーキーは手話が構造において散文のように叙述的であるだけでなく、本質的に映像的であると考えた。現在では手話は、音韻体系と時間層と耐えざる連続性を持つという意味で、発話に匹敵するものとしても考えられている。

 人間は成長の過程で知覚世界から概念世界へと移行していく。世界を事実の断片ではなく、関連や理解や観念と意味を持ったものとして捉えるようになる。この移行は自己との語らいという思考として、内在化されていく対話によってなされる。この対話が言語を、精神を生み出すと、我々は内的言語を育むことになる。

手話で考える場合手の動きがはっきり外に現れているなら外的言語であるし、頭の中で手話を使っているなら内的言語である。ろう者は夢想にふけるとき、両手をせわしなく複雑に動かし、編物でもしているような仕草をする。それは編物をしているのではなく、手話で考え事をしているのである。寝ているときも両手をベッドの上に手を出して、途切れ途切れに手話をすることがあるという。sレは手話で夢を見ているのである。

人間の発達・思考の形成には内的言語は欠かせない。外的言語では思考が言葉で具現化されているのに対して、内的言語では言葉は思考をもたらすと同時に消滅する。内的言語は純粋な意味での思考であり、人間の真の言語・真のアイデンティティーは、内的言語の中の、個々の精神を構成する意味の耐えざる連続と生成の中にあると言える。ろう者の内的言語は極めて特異であり、根本的に違った方法で自己の世界を構築し、ほとんど視覚的な思考パターンだけを用い、物理的な対象について違った考え方をしている。手話使用者は、新しい驚くほど洗練された方式を発達させて空間を表現できる。この空間は、手話を知らない者の空間では見られないような、新しい種類の形式的な空間である。これは今までまったく知られていなかった神経学的な発達、高度な視覚認知の存在の証明である。このためろう者の中には、健聴者にもめったに見られないほどの優れた演出家・建築家としての才を表わすことがある。

 

冒頭に引用した『手のことば』において私が最も感銘を受けたのは、献辞として記された以下のような言葉だった。

夫 アルバ−トに

  左の手のひらで心臓部をおおい

  右の手のひらをその上に重ねる

      (手話“愛をこめて”)

この単純な動きは、どんな愛の言葉よりも豊かに感情を表現しているように思う。手話は聴覚障害者と語るだけの言葉ではなく、その静けさの中に無限の雄弁さを持っているのである。

 

最後に、このレポートが手話という言語の特性に焦点を絞ったもであるために、あえて排除した問題点いついて記しておきたい。まずこのレポートはアメリカの文献を参考に記したので、おそらく日本での状況はまったく異なったものであると思われる。事実、自分は日本での手話の状況については知識はほとんどない。

さて、手話文化と口語文化について。手話は大きな力をもった言語ではあるが、ろう者を隔離し孤立した集団にしてしまうので、むしろ発話と読話(唇の動きを読んで意味を読み取る)を教えて一般社会に溶け込めるようにするべきだという論争も、昔から根強くある。しかしろう児の口語教育が週に何時間も要する重労働で、一般教育に回すべき時間を奪ってしまうという意味では、それはマイナスにしかならない。1850年代のアメリカで、口語主義の優勢によりろう学校で健聴者の教師が授業を教えるようになった結果、ろう児の教育水準とろう者一般の識字能力が一気に低下したという事実が、それを証明している。

なお、手話は世界の様々な音声言語と同じく国や地域でずいぶんと違っていて、唯一普遍的な手話は存在しないが、共通する普遍性は存在するらしい。手話言語の使用者は音声言語の使用者よりもはるかに自分の知らない言語を理解することが容易で、独特の方法で他の手指言語を身につけることができる。ジェスチャーやマイムを交えて大抵のことは数分以内に理解してしまうし、その日のうちに文法のないピジンを作り出し、三週間もあれば相手の手話について申し分のない知識を手に入れられるそうである。

 

≪参考文献≫

ハナ・グリーン『手のことば』(みすず書房)

オリバー・サックス『手話の世界へ』(晶文社)

田上隆司・森明子・立野美奈子『手話のすすめ』(講談社現代新書)