比較文学レポート〜象徴主義とユートピア〜

 

パート1 ギュスターヴ・モローの『出現』から

 

 

フランスの画家ギュスターヴ・モローは、19世紀末に活躍した象徴主義の画家である。文学的主題を特に好んで描いた人で、文学的創造に与えた影響力も大きい。モローが精力的に仕事をした1860〜1880年代は、美術界において、外界の自然などの「目に見える現実」を描き出そうという動きの見られた時代である。文学においても、フローベルらによるリアリズム小説や自然主義の文学が主流を形勢していた。モローはこの時代の流れに逆らうように、「目に見えない世界」に惹かれて古代の神話世界や聖書の語る逸話などを描き、それゆえに象徴主義の画家とみなされた。モローの作品は、象徴派のマラルメやジョール・ラフォルグ、のみならず写実主義の作家にも大きな影響を与えた。モローは「古典こそ新しい」と考える一種の近代嫌悪者で、都市生活の楽しみに距離を置いていた。この点では印象派的思考とは対照的で、単純な自己模倣を認めなかった。

モローが世間の話題を集めたのは、1876年、サロンに四つの作品を出品したときである。その中に油彩画の『ヘロデ王の前で踊るサロメ』と、水彩画の『出現』があった。この二枚はあの有名な「サロメ」の物語をモチーフに描かれたもので、『ヘロデ王の前で踊るサロメ』では幾重にもアーチの重なった荘厳な宮殿を背景に、きらびやかな衣装を身にまとってヘロデ王の前で踊るサロメの姿が、『出現』では中空に突如出現したヨハネの首に驚くサロメの姿が描かれている。「サロメ」の物語の原型になったのは、「マタイ」及び「マルコ」による福音書の中にあるこんな話である。

ユダヤの王ヘロデは、預言者ヨハネが自分と兄ピリポの妻ヘロデヤとの結婚を咎めたことに怒り、彼を投獄するが、命まで奪ってしまう決心はつかないでいた。一方、ヘロデヤの連れ子サロメはヨハネに恋しており、何とか彼を振り向かせようと求愛するが、聖人であるヨハネはまったく応じない。やがて激しい愛情は憎しみへと形を変える。ヘロデ王の誕生日の宴でサロメは見事な踊りを披露し、ヘロデ王から「褒美に何でも欲しいものを与えてやる」という約束を取りつける。サロメはいかなる財宝も望まず、ただ「ヨハネの首が欲しい」と言う。王であるヘロデは約束を破るわけにはいかず、ヨハネの首を刎ねて、お盆に載せてサロメに渡す。こうしてサロメは、愛しい男の生首を手に入れるのである。

モローが二枚の「サロメ」の絵を発表した1876年は、作家のギュスターヴ・フロベールが小説『三つの物語』の中の三番目の短編『ヘロデヤ』を構想した年でもある。この作品の中に登場するサロメは、その姿を見る者の興奮を掻き立てるように踊る妖艶な女性として描かれており、モローの絵画におけるイメージと重なり合う。フロベールの描くサロメは、明らかに、男を破滅へと導く「ファム・ファタル(運命の女)」を体現している。執筆前に徹底的な資料調査を行う作家として知られたフロベールは、サロメの踊りの中に、モローの絵画やゴシック彫刻から得たイメージ、エジプトで見た娘の踊りの思い出などを反映させた。いずれにせよ、ルドン、ジャン・デルヴィル、オスカー・ワイルドとその小説の挿絵を担当したオーブリー・ビアズレー、ラフォルダなど多くの作家によるその後のサロメ像の氾濫が、モローの絵画とフロベールの小説に端を発していることは間違いない。

ゾラを中心に集まった自然主義の作家たちの、いわゆる「メダン」グループ(パリの郊外メダンにあったゾラの別荘に集まって文学を論じ合っていたのでこう呼ばれる)の一人、ジョリス・カルル・ユイスマンは、自然主義的な作品で社会の底辺で暮らす人々を描き出す一方で、神聖な世界への憧れを後期の『大聖堂』などの作品の中で結実させた。中でも有名なのが、1884年発表の『さかしま』である。この小説の主人公であるデカダン貴族のデ・ゼッサントは、神経症に犯された隠遁生活の中で、現実社会とは正反対の、極度に洗練された趣味の生活を送り、絵画を鑑賞するために、モローの描いた例の二枚の「サロメ」の絵を購入する。ユイスマンが『ヘロデ王の前で踊るサロメ』の中に見出したのは、病的な美の君臨する情景で、サロメの表情にヒステリーやカタレプシー(硬直症)の痕跡を読み取ることは、19世紀末特有のメンタリティーを反映している。ユイスマンの目というプリズムを通して描かれるモローのサロメは、聖書に描かれた単純な物語をはるかに超えて、世紀末特有のファム・ファタルの典型的形象となっている。小説の中で、デ・ゼッサントにとってのモローの絵画は、彼を恍惚へと誘う麻薬のようなもので、病的に洗練された他の趣味同様、一種のカタルシス的な効果を持っていた。それは平凡で醜悪な現実を忘れさせてくれるはかない夢のようなものである。ユイスマンの見るモロー絵画の魅力は、華麗な装飾と異国趣味あふれるオブジェ、そしてその上に君臨する妖婦の存在にあった。

作家マルセル・プルーストはほどなく、モローに関する覚書を執筆し、「白鳥」「宝石」「琴を持った詩人」といった反復して表れるモチーフに着目した。また、未刊の小説『ジャン・サトゥイユ』や様々な評論の中でモローについて語っている。プルーストが強調するのは、芸術作品が鑑賞者の目を作り変える機能を持っていることである。代表作『失われた時を求めて』の中でも、エルスチールという登場人物が目にする絵画として、モローの作品について語っている。この部分でプルーストが試みたのは、モローの絵画の特徴を自分の言葉で表現することだった。異国情緒、象徴絵画に付与された歴史的な現実、両性具有の視覚化、これらが作家の目に映ったモロー絵画の魅力だった。

ジャン・ピエロは『デカダンスの想像世界』の中で、ロマン主義から象徴主義、そしてデカダンス文学をつらぬくテーマとして神話と伝説の重要性を挙げていた。サンボリズムにおいては、物質的な現実は精神的な現実の可視面としてのみ意味を持つが、具体的な神話や伝説の形を使えば、知的で抽象的であり、なおかつ時を越えたメッセージを組み込むことができるからである。その意味では、モロー絵画はまさに神話を通して普遍的な理念を表現しようとしたといえる。もちろんそれだけではなく、個人的な思いを託すこともあった。

1870年代のフロベール、1880年代のユイスマン、1890年代のプルーストと、作家たちはモローの絵画の中に様々なメッセージを読み取ってきた。このように象徴主義の時代には、ジャンルの溶解と諸芸術間の交流が促進され、文学・演劇・音楽などの芸術が互いの作品に大きく干渉しあい、文学・演劇などの中では新しいテクスト概念が再編されていった。象徴主義とは、作品の産出とその享受という行為を通じて世界との函数関係を打ち立てようとするものであり、創作者と享受者双方の意識のありようについて大きな変革を促す芸術運動だったのである。

 



 

パート2 三国志の中のヒロイックユートピア

 

 

宋代の中国では、「説三分」と称される三国志物語が、講釈師によって盛んに語られていた。その語り物としての最古のテキストが「新全相三国志平話」であり、これが後の「三国志演義」のベースとなったものである。その中心となるのは、劉備とその義兄弟の関羽・張飛の活躍であり、そのイメージは「演義」よりはるかに荒々しくバーバラス(野性的)である。それは民衆の哄笑と喝采の中で生まれてきたヒロイックファンタジーの世界であり、登場人物の中でも最も精彩を放っているのが張飛の活躍である。

上・中・下の全三巻構成になっている「平話」の上巻は、劉備が関羽・張飛と義兄弟の契りを結んで、黄巾の乱の討伐に乗り出すところから始まる。劉備主従は討伐の中で抜群の功績を挙げたものの、後漢王朝で猛威をふるう宦官に対して賄賂を送らず、それどころか、暴れ者の張飛が賄賂を要求する宦官をカッとなって殴り倒したりしたため、なかなか論功に与れなかった。やがて皇帝の叔父の目にとまり、ようやく定州安喜県の尉の官職にありついたものの、着任早々、上官にあたる定州の太守が故意に劉備を侮辱したことに激怒した張飛が、太守邸に押し入って一族郎党を皆殺しにするという事件が起こる。そればかりか、勢いあまった張飛は事件調査のために朝廷から派遣されてきた督郵まで惨殺してしまったため、劉備主従は任地を追われる身となり、逃亡生活の中で山賊になる。それから三年が経過する中で劉備の真意がようやく朝廷に伝わり、劉備は改めて平原の丞に任命される。

このあたりから、呂布を傘下とした董卓の権力が増大し、劉備主従は曹操軍に加わってこの討伐に向かう。その後、董卓を裏切って殺した呂布は劉備のもとに身を寄せるが、劉備と関羽が出陣した隙に、留守を預かった張飛の酒癖の悪さに乗じて、その領地を奪ってしまう。やむなく劉備は本拠地を別の場所に移すが、今度は張飛が呂布の金品を強奪するという事件が起こる。呂布は軍勢を率いて劉備の前に現れ、「張飛を出せ」と迫るが、劉備は応じない。切羽詰って「すべてお前のせいだ」と関羽になじられた張飛は、逆上し、わずかな手勢だけを率いて呂布の包囲網を突破し、曹操のもとに駆けつけて救援を要求する。曹操が信じないと見るや、再び取って返し、劉備の手紙を携えて再度曹操の元に赴く。張飛は都合三度、呂布の包囲網を突破したことになる。この後、曹操によって呂布が滅ぼされたところで、「平話」の上巻は幕を閉じる。こうしてみると、良きにつけ悪きにつけ、張飛が八面六臂の大活躍をしているのが分かる。

つづく中巻・下巻でも、張飛の活躍はめざましい。呂布を倒した後、曹操は劉備主従を厚遇していたが、自分の暗殺計画に劉備が加担しようとしていたことを知り、大群を率いて劉備のもとに攻め込む。混乱の中で、張飛は行方不明となり、劉備の妻子を預かっていた関羽は二人の身の安全のために曹操に降伏し、劉備は逃げ延びて曹操のライバルである袁紹のもとに身を寄せる。その後の両者の戦いの中で、劉備の妻子を人質にされた関羽は、曹操軍の一人として戦い、袁紹軍の猛将二人を切り捨てる。これに袁紹が激怒したため、劉備は今度は荊州の劉表のもとに向かう。その情報を掴んだ関羽も、劉備の妻子とともに曹操軍を脱出して劉備と合流した。

劉備・関羽の一行がそれぞれ荊州を目指していた頃、行方不明の張飛はどうしていたか。彼はなんと山賊の頭目になっていたのである。自らを「無姓大王」と称し、古城の一角につくった「黄鍾宮」という宮殿もどきの建物に住み、「快活」という珍妙な年号まで定めて、好き放題にやっている。

やがて劉備と再会した「無姓大王」張飛は「ガガ(兄貴)、どうしてここへ来たんだ」と言う間も惜しく、ただちに劉備を「黄鍾宮」に迎え入れ、自分に代わって「皇帝」にしたのであった。そこへ折りよく関羽一行も通りかかり、再び集まった義兄弟三人は荊州へと旅立つのであった。

ここまでのくだりでも、山賊の皇帝なっていたかと思えば、「ガガ」と怒鳴ってガラの悪さを剥き出しにしたりと、張飛には他の登場人物を圧倒する迫力があるが、その極めつけが「長坂の戦い」である。

その後、劉備一行は、曹操の大軍勢を率いての追撃に大ピンチとなる。ここでめざましい活躍をみせるのが、単身で劉備の長男阿斗を救い出す趙雲と、わずか二十騎の手勢で長坂橋のたもとに陣取り、曹操の大軍を食い止める張飛の二人である。「平話」の描写は次にようになっている。

「曹操の三十万の軍勢が押し寄せてきた。曹操が「お主、どうして逃げないのか」と問うと、張飛は笑って「わしは軍勢など眼中にない。曹操だけ見ておるのだ」と言った。曹操軍がどよめくと、張飛は叫んだ。「わしは燕人翼徳である。わしと命がけの勝負をする者はおらんか」耳をつんざく雷鳴のようなその叫び声で、橋が真っ二つに断ち切れ、曹操軍はダダッと三十里も後退した。」

叫び声で橋が落ちたというのだから、これはもう荒唐無稽と言うしかない。聖人である劉備や関羽よりも張飛の方がこれほど活躍するのは、やはり「平話」が、民衆を対象とする語り物から生まれてきたからだろう。めっぽう強いが、どこか間が抜けており、肝心なところでついドジを踏んでしまうトリックスター的要素も持った人物。強くて滑稽な張飛は、まさしく刺激と笑いを求める民衆にうってつけの、ヒロイックユーットピアを代表するキャラクターだと言える。