アメリカ小説レポート「西洋世界の悲劇的精神をめぐって」


 

パート1 西洋世界文学史をめぐって

 

西洋世界には一貫して存在する持続的な伝統として、悲劇的精神というのがある。それは旧約聖書のヨブ記にはじまる、キリスト教と深く結びついたものである。イギリスの批評家ジョージ・スタイナーは、偉大な悲劇的作品の存在によって、古代ギリシャ時代・16〜17世紀のエリザベス朝のイギリスの時代・19世紀後半の帝政末期のロシアの時代の三つにヨーロッパの時代を分けた。

古代ギリシャの時代では、三大悲劇詩人として、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスらが活躍していた。ソフォクレスが『オイディプス王』で、自分の責任ではないのに宿命によって罪を犯さざるをえない人間を描いた。

17世紀には、フランスの作家ラシーヌがギリシャ悲劇をモチーフにした作品『フェードル』(1677年)で、道徳心が強く情欲を憎む人間であるにもかかわらず、義理の息子を愛するようになってしまう女を描き、人間はみずからの弱さを克服できない限界ある存在であることを示した。

ときを同じくして17世紀のイギリスでは、劇作家のシェークスピアが『オセロー』『ハムレット』『マクベス』『リア王』の四大悲劇を執筆した。そのひとつ『リア王』では、狂気に陥ったときに初めて、虚飾を捨てた人間性そのものに出会う様子を描いた。

19世紀末のロシアでは、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』などの悲劇を発表した。また『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などを発表したトルストイは、自分が善行を他人に見られることに非常に喜びを感じる人間だったことを語り、人間はエゴイズムをもった絶対化されない存在だとした。

これらの悲劇作品の主人公が苦しんでいるものは、人間を超越する力との葛藤であり、みずからの宿命とどう向き合うかということである。

 

一方、アメリカにおいては、その文化的特徴としての理想主義の存在がある。それはフィッツジェラルドの『偉大なるギャッツビー』(1925年)における、己のヒロイックな理想のために自分自身を捧げるロマンティックな幻想に象徴されている。アメリカという国の始まりにはそもそも、信仰復興運動の一つである「ジョナサン・エドワードの大覚醒」に心酔したサミュエル・アダムズが、イギリスからの分離独立の必要性を説き始めたという経緯があり、独立宣言の理念には、ピューリタニズムと共和制国家の理想が同居している。キリンジャーは「アメリカの歴代大統領は必ずアメリカの非利己的性格・世界に対する義務について語る」と言い、アメリカの政治的信念がナイーブな理想主義にあるとした。

アメリカは自分の国が特別な国(redeemer’s nation)であり、世界の集団的安全保障の管理者としての役割を持っていると考えている。これが「アメリカの戦争は常に十字軍であった」という言葉が使われるゆえんである。この考え方は、アメリカに孤立主義と国際主義という相反する二つの伝統を生んだ。これがアメリカの文化的宿命であり、フィッツジェラルドは「第一級の知性の試金石は、二つの対立する考えを心中に蔵しえて、しかもなお存分に精神が機能しうるか否かにある」と言った。

アメリカにようやくアメリカ文学と呼べるものが誕生したのは、19世紀半ばのことである。その中にもヨーロッパの悲劇的精神は受け継がれており、神への信仰と人間の完全性への希求という理想主義がこの時代の特徴だった。

ナサニエル・ホーソンはリッチフィールドで見たゴシック式の大聖堂に感動し、己の限界についての痛切な自覚を得た。そして、自分がいかに地上的な存在でしかなく、高き精霊の次元を下の方からはるかな距離を隔てて仰ぎ見ているしかできないということ、つまり人間の有限と絶対者との間に存在する深淵を感じ取ったのである。ホーソンは小説『緋文字』(1849年)の冒頭で、「新しい植民地の創設者たちが、人間の美徳と幸福に満ちたいかなるユートピアを企図したとしても、彼らは当初から、その実際的必要として、処女地の一部を墓場に、他の一部を監獄に当てることを認めざるを得なかった」と書き、人間が有限な存在であることを示した。また『あざ』という短編では、妻の顔にある小さなあざを消そうとした挙句、あざを消すと同時に妻の命も失ってしまう男の姿を描き、人間に完全性を求めることの愚かさを示した。

ホーソンと同時代のアメリカの作家ハーマン・メルヴィルは、『白鯨』(1851年)において、アダム以来全人類が抱いてきた怒りと憎しみの一切を背負い、それをもたらした宇宙の悪の根源を叩き潰そうという狂気にとりつかれたエイハブというキャラクターを登場させた。彼の行動を通して、神に対する人間の挑戦、原罪を持った不完全な存在として人間を作った神への怒りを描いた。

19世紀末になると近代科学や資本主義の発達にともなって、「神への信仰」から「人間への信仰」へと価値観は変化しはじめた。しかし、第一次世界大戦の勃発でそれも終りを告げ、ヘンリー・ジェイムズはこう語った。

「我々が今、悪夢の中に生きているのではないかのように語っても無駄なことです。かくも恐るべき流血と恐怖の深淵に文明社会が突き落とされてしまったのです。ときに後退することはあっても、世界は次第に良くなると信じてきた我々の年月は、すべて無意味なものになってしまいました。(中略)我々のこの愚者の楽園の一切がその正体を暴露されてしまったのです。そんなもののために営々と努力してきたとは、我々はなんと愚かだったのでしょうか」

そして西洋世界は、ふたたび悲劇的精神を持続させることになったのである。

 

 

パート2 『緋文字』をめぐって

 

西洋の悲劇には伝統的に、絶対者である神が万能の力を持つのに対して、人間は限界を持った存在であるという根本的な考え方がある。ナサニエル・ホーソンの小説『緋文字』(1849年)は、税関の職を失い、その翌月には母を亡くすという不幸の中で執筆されたが、この作品でも、その考え方は物語のテーマの根本をなしている。それは冒頭の「新しい植民地の創設者たちが、人間の美徳と幸福に満ちたいかなるユートピアを企図したとしても、彼らは当初から、その実際的必要として、処女地の一部を墓場に、他の一部を監獄に当てることを認めざるを得なかった」という文章を読んでも明らかであろう。

『緋文字』のテーマはおそらく人間の「暗き必然性(dark necessity)」にある。人妻でありながら不倫で不義の子をもうけてしまうレクター、レクターの不倫相手の牧師のティムズデイル、そしてレクターの夫で妻の不倫に対する復讐に燃えるキリングワースの3人の登場人物を通して、人間の内面的な弱さを描く。

 

へスターの場合、町の掟に従い、「姦通女(Adult eress)」を表わす「A」という緋文字を胸に縫いつけて、みずからの罪を公表する。しかし町の掟を心の底から信じて従っているわけではなく、彼女がさらし者になりながらも町にとどまり続けるのは、ティムズデイルのそばにいたいからに他ならない。何があっても、彼女の本質は変わらない。その証拠に、ティムズデイルとともに逃亡しようと決心すると、何のためらいもなく胸の緋文字を投げ捨てる。このとき彼女が帽子を脱ぎ捨てると、髪が肩に落ちて黒くてふさふさとした光と影を見せ、「7年もの追放と恥辱の年月は今このときの準備に他ならなかった」と感じたとある。これはヘスターの情熱は押し込まれていただけで、胸の緋文字は「penitence(悔い改めの行為)」として役割をまったく果たしていなかったことを示している。そしてふたたび「temptress(誘惑者)」としてティムズデイルを連れ出そうとする。

 

次にティムズデイルの場合、へスターが不倫の相手を明かさなかったことで、世間に対してはその罪は隠されている。しかしそれゆえにこそ、「真の聖職者、宗教家」であろうとする自分と「魂の暗い秘密を抱えた恐ろしい罪人」としての自分との間の葛藤に悩まさられる。信者の信頼や尊敬を受ければ受けるほど、自分がいかに偽善者であるかを自覚して、惨めな自分が意識されるようになる。やがてヘスターによって、もっとも信頼する友人だったキリングワースの正体を明かされてショックを受け、彼女とともに町を脱出することに同意する。ここにいたって彼の人生に「devil」の部分が生まれ、暗い変貌が起こる。彼は一歩ごとに何か風変わりで凶暴な悪いことをしたい思いにかられ、信仰に厚い老婦人に神なんていないと言ってやったらどうだろう、汚れなき娘や子供に汚い言葉を教えてやったらどうだろうと考える。彼は自分が何をしでかすかわからない恐怖から、自分の部屋に逃げ込んで、ようやくほっと息をつく。町を去ることは、「penitence(悔い改めの行為)」を捨てることにほかならない。彼は幸福な夢に誘われて慎重に決断したのだが、今までになく、知りながら罪を犯したのであり、「この罪の伝染する毒素が、道徳心全体にこれほど早く広がっていたのだ。そして全ての聖なる衝動を麻痺させあらゆる悪の衝動を目覚めさせ活気づけた」のであった。そして価値観の変革した目で、かつての無邪気な自分を、軽蔑と哀れみに半ば羨望を込めた好奇心を抱いて見つめ直す。

超自然的なものを宗教精神によって乗り越えようとしたティムズデイルも、結局は人間としての弱さ・エゴからは逃げられないのである。

 

最後にキリングワースの場合、彼は科学的精神の人であった。生涯を通じて穏やかな気質で、温かい感情はなかったけれども優しいところもあり、いつも世間と交わるときは純粋で正しい行いをする人で、幾何学の問題の空間に描いた線や図形しかないかのように、ただ真理だけを手に入れたいという情熱を持っていた。しかし復讐への欲望にとらわれ、「自分は人の心を完全に理解することができる」という理性の傲慢さを持ってティムスデイルに近づいて、自分の支配下に置こうとする。こうして人として間違った道を歩むにつれて、彼の容貌も醜く邪悪なものへと変貌していく。ティムズデイルもキリングワース「outside of nature」を理想としているが、「nature」の「temptation」を克服できない。キリングワースは次のように言う。

「長い間忘れていた昔の信仰が戻ってきて、皆のしていることや苦しんでいることが良くわかる。お前がはじめに一歩誤ったために災いの種をまいたのだ。だがその後はまったく暗い必然の宿命なのだ」

この言葉は、アダムとイヴが楽園を追放されて以来、人間は罪と死の奴隷として暗き必然を歩まざるをえなくなった宿命の奴隷である、という西洋の悲劇的精神に基づくものだ。『緋文字』が発表された時代は、過去のしがらみから脱却していこうという改革精神が世の中にあふれていた。ホーソンはこれに対して批判的で、我々は過去によって限定されているという「原罪」の意識、すなわち、「誰か一人が間違った行為をする、それが取り返しのつかない結果を招き、皆がその責任を負わざるをえなくなっていく」という考えを、改めて示したのである。