「蝿の王の帰還」

 

 

 

一冊の悪魔祈祷書からそれは始まった。

ある蒸暑い夏の日、男はその町のごみ捨て場へと向かった。男は腐臭の中に身を横たえ、しっかりと止血した上で、持ってきたナイフによって自らの四肢をずたずたに切り裂いた。

二日目に四肢は腐りだし、三日目には無数の蝿が集まり、四日目には卵を産みつけ、五日目にはわきだした蛆が腐肉を食らい、六日目には蜻になった。そして七日目の朝、意識を失いかけていた男の前に一匹の黄金の蝿が現れた。

「我が眷属に自らの肉体を捧げし者よ、汝我との契約を望む者か」

男が「望む」と答えると、蝿は続けて問うた。

「ならば汝の名前を捧げよ、我新たな名前と力を与えん」

次の瞬闇、全ての人間の記憶から男の名前は消えた。

「汝の名は、魔王ベルゼブルが第一の下僕、魔人エクソニス。我と共に生き、世界を食い破るがよい」

蜻から一斉に艀化した蝿たちが黒い塊となって男の新たな四肢を形作った。黄金の蝿が男の肩に止まると、男は雲のように集まった蝿たちに包まれて空の彼方に舞い上がった。

 

数日後、ロードス島のイサハカット修道院の修道女達は、東の空から黒い雲が雪を降らせながら近づいて来るのを見た。その年最初の雪の到来を思い思いに喜んでいた修道女達は、その正体に気づくと戦標した。黒雲を形作っているのは何千万という蝿たちの群れであり、白く降りそそいで来るものは、そこから産み落されてくる何千万という蛆虫なのだった。修道女たちは、次々と降りつづける蛆虫たちに生きたまま食い破られながら逃げまどい、絶叫した。
 その中に一人、怯えることなく主に祈りを捧げ続ける少女がいた。黄金の蝿は黒雲の中から踊り出ると、その少女の口の中に入りこんだ。蝿は少女の体を内側から食い破り、少女は痛みに絶えながら必死で祈り続けたが、やがて恍惚の表情になったかと思うと、その目が黄金色に輝き、黒雲の中に身を踊らせて男と共に空の彼方に消えた。
 後には雪のように一面に降り積もり蠢き続ける蛆たちと、修道女たちの死骸だけが残っていた。
 
黒い雲は次々と教会の上に現れては主に仕える者たちを食い殺していき、一ヵ月の間に地中海のほとんどの教会が廃墟になった。そしてある日、啓示を受けた五人の僧がシナイ山の麓に集結した。

一人目の僧が言った。彼は真理をよりよく見るために、自らの目を潰していた。

「この惨劇の主は魔界の副官ベルゼブ/レだ。蝿どもを引き連れているのが証拠だ」

二人目の僧が言った。彼はかつて盗賊に教えを説き、両腕を切り落とされていた。

「しかし奴は封印されていたはず。奴に魂を売り、魔人となって力を貸す者がいる」

三人目の僧が言った。彼は病人の救済に明け暮れ、自らも病を負っていた。

「人だったときの名を当てれば、魔人は人に戻ると言われている」

四人目の僧が言った。彼は最も若くそれゆえに最も神に近いと言われていた。

「人々は恐怖から教会を避け、信仰を捨てさろうとしている。もはや一刻の猶予も許されない」

五人目の僧が言った。

「わしの命を生賛として捧げよう。この中では最も長く生きたからな」

五人目の僧は祭壇で胸に剣を突き刺して息絶えた。吹き出た血は、日の昇る方向へと流れ出した。

「東だ」「三賢者の来たりし東方だ」「日出づる場所に手がかりはある」

四人の僧は絹の道を辿り、東へと旅立った。旅の最中に、一人目の僧は毒蛇に噛まれて死に、二人目の僧はらい病にかかって死んだ。三人目の僧は高砂族に襲われて死に、四人目の最も年若い僧だけが、東の果ての島国にたどり着いた。
 やがて彷徨う僧の耳にどこからともなく歌声が闘こえてきた。それはヘブライ語の響きに似ていた。

『ナウギアドヤラヤウナギアドナーサレーデヤサーエナウギアドヤラヤウ』

歌声に誘われて行くと、やがて「十来太郎大天空」と記された小さな墓の前にたどり着いた。

僧は、墓守とおぼしき老人に話しかけた。

「この村の人々は一体何者なのです。何故こんな辺境の地でヘブライ語を」

「あなたは聖職者のようだが、忌み送りという言葉をご存じかな。私たちの祖先はかつて西方にいました。しかし、罪を犯して主に仕える立場を追われ、災厄や悪神を背負わされて海に流されたのです。そして遥か異国のこの地にたどり着き、天寿を全うした。それがこの墓の主です」

僧は自らの旅の目的を老人に話した。

「お力になれるようなことは何一つ知りませんが、ただ一つ最近奇妙なことがありました。この村の出生名簿・洗礼名簿に見知らぬ名がいつの間にか書き込まれていたのです。まるで初めからいた人間であるかのように。だが、この村でその名前を記憶している者は、誰一人としていないのです」

僧はその名を心に刻みつけると、再びシナイ山の麓を目指して旅立った。

 

『ソムクトシヌルゾ、カミヌシニソムクナヨ、ナンジガメテイルゾ』

男はいつか読んだ祈祷書を思い出しながら、迷宮中に響きわたる声で哄笑した。彼の前には生賛となって死んだ数百人の若者の死骸が横たわっていた。

「どうだ、主よ、見ているか。私はあなたに背いた。悪魔と契約し、罪なき人々を死へと退いやった。だが、私は生きている、生きているぞ!」

僧がシナイ山に帰り着いたとき、出発から三年がたっていた。蝿の王は無思慮な殺戮をやめるかわりに、ひと月に十人の若い男女を生賛として捧げることを求めた。生賛の十人の内の九人は蛆虫達に生きたまま喰い殺され、残った一人はその凄惨な様子を伝えるために生きて帰された。若者達は、帰された者の話を聞いて益々恐怖し、生賛となることを避けようとした。しかし、襲撃を避けて身を守るためには、何としてでも生賛を送るしかなく、生贄を送ろうとする者とそれを拒む者との争いを生むことになった。恐怖と絶望、憎悪と疑心が街に溢れ出した。僧は姿を変えると、生賛の十人の若者の中に紛れ込み、蝿の王の住む迷宮都市ラビュリントスの入口にやって来た。まもなく迷宮の中から現れた使い魔の案内の元に一行は進んで行き、迷宮の片隅で夜を迎えた。最初の夜は何事もなく開けたが、二日目の夜が明けると一人の若者が食い散らかされた肉塊になっていた。恐怖する若者達に使い魔は告げた。

「これよりあなた方は、迷宮を彷徨いながら一晩につき一人ずつ、蛭虫達の餌になるのです。十日目の朝まで生き残った者だけが、迷宮の中心で我等が王に会えるのです」

使い魔の言葉通り、その日から夜が明けるたびに一人ずつ生贄は死んでいった。僧は神の加護によってか、何とか十日目まで生き残り、まだ年端もいかぬ少女がもう一人生き残った。僧は怯え続ける少女の恐怖を取り除いてやろうと、そっと耳打ちした。

「大丈夫、私たち二人は無事にこの迷宮を抜け出られます。私は、魔人を倒す鍵を握っているのです」

やがて二人は迷宮の中心へと辿り着いた。そこでは何百という死骸が敷きつめられた宮殿に、一人の男が鎮座していた。

「よくきたな、弱き羊共よ。恐怖とともに我が名を刻みつけ、あまねく者共に知らせるがよい。我が名は蝿の王が第一の下僕、魔人エクソニス」

男の声に怯える少女を後ろに庇いながら、僧は男に対時した。

「悪魔に魂を売り渡せし者よ。それは汝が真の名にあらず。主より賜りし名を思い出し、人として死ぬがよい。我、主の名において告げる。汝の名は…」

僧がその名前を告げた瞬間、閃光とともに男の四肢は四散し、その魔力は消滅した。快哉の声をあげる僧の後ろで、少女の眼が黄金色に輝いた。突然少女の手が信じられない速さで動いたかと思うと、するどく尖った爪が刃となって僧の体を貫いた。そして血飛沫を上げる僧の体を、豹のように跳躍して飛び越すと、四肢を失い芋虫のようになった、かつて魔人だった男の体を拾い上げた。

「な、なぜ…」
 僧の問いかけに、少女は妖然と微笑みながら答えた。

「愚か者め、最初の晩、誰も死ななかったのを不審に思わなかったのか。この少女の体は真先に犠牲になり、とっくに体の内部を食い破られていたのだよ。私が取り憑き、生賛どもが恐怖の中で死んでいく様を最も間近で見られるようにな。最初から生きてこの宮殿に辿りつくのは一人だけなのさ。まさか一人だけ生きて帰そうとしていた人間が、我々を狙う僧だとは思わなかったがね」

「それではお前がベルゼ…」

僧は最期まで言葉を続けることができなかった。少女の召還した蝿の群れがその口を埋め尽くしたからだ。蝿に溺れるようにして僧は絶命した。少女は全ての蝿を従えると、空高く舞い上がった。その眼下で迷宮都市ラビュリントスが、静かに崩壊した。
 少女は腕の中で悶え続ける男に優しく、しかしいくらかの侮蔑を込めて語りかけた。

「悔しいか。志半ばで死ぬのはやりきれんだろうなあ」

男は答えず、苦痛と屈辱にうめき続けるばかりだった。

「お主の想いは私が引き継いでやろう。我が血肉となって共に生きつづけるがよい」

少女が突然口を大きく開けると、男の体はたちまち霧散してその中に吸いまれ、少女は満足げにごくりと喉を鳴らした。

「お前のおかげでかなりのカを取り戻せた。いつの日か必ず、この世界を食い破ってみせるよ」

黒き群れは一段と高く舞い上がったかと恩うと、雲の彼方に消えた。その後の蝿の王の行方を知る者は誰もいない。

その日、東の果ての島の住人たちは、はるか昔に祈濤書を持って出奔したある男の名を思い出していた。その島は時の政権によって流刑地となった。それはやがてはるかな将来、新たな契約者を生むことになる。


(了)

 

 

 

 

 

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