聖書を正しく学びましょう
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続・慰め

トーマス・ベントリー

トーマス・ベントリー



ヨハネの福音書14章


ヨハネの福音書14章からお話したいと思います。
最初に、救い主の慰めを学びましょう。
「慰め」というテーマに関しましては、ヨハネの福音書14章ほど
ふさわしい章は、他にありません。
この章は、「慰め」、という働きのための章です。
この章で、キリストが語っておられるお言葉に、注意深く、また、
よく考えつつ耳を傾けて下さい。



二階の大広間

救い主は、弟子たちが、慰めを必要としていることを知っておられました。
ヨハネの福音書の偉大な数章を読むと、主が弟子たちと非常に
親密であられたことがわかります。
これは、この時の働きの、重要な特徴の一つです。
二階の大広間を思い浮かべて下さい。皆が晩餐のために食卓に着いています。
食事が終わって、さまざまなことについて、主がお話になりました。
その話のほとんどは、「問題」に、ついてです。
それらの問題の一つ一つは、難しいものでした。
主イエス様が、それらの問題に答えておられるのは、素晴らしいことです。



ユダの裏切りとペテロの否認

問題の中でもっともむずかしいことの一つは、
イスカリオテのユダが救い主を裏切る者であると明らかに示されたことでした。
主イエス様はすでに、あなたがたのうちの一人が
私を裏切るとお告げになっていました。
しかし、裏切り者がユダであることがはっきりしたのは、この時だったのです。
弟子たちにとって、それがきわめて大きな衝撃だったことは、確かです。
弟子たちはこの瞬間、初めて、裏切ろうとしているのは
ユダだということを知ったのです。
ですから、弟子たちは大いに悩みました。
ヨハネの福音書13章では、イスカリオテのユダに加えて、
もう一人の弟子についても主イエス様は語られました。
ご承知のように、それはペテロです。
その時にそこに座っていたペテロは、「私は、裏切りません。」と言いました。
実際には、


「あなたのためにはいのちも捨てます。」
(ヨハネの福音書13章37節)


と言ったのです。

そして、他の弟子たちはペテロがそう言うのを聞いて、ほっとしたと思います。
ユダはイエス様を裏切ろうとしていましたが、逆にペテロは、
私はあなたのために命を捨てます。と、言ったのです。
しかし、主イエス様は、それに対してこう言われました。


「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。
まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、
あなたは三度わたしを知らないと言います。」
(ヨハネの福音書13章38節)


それは非常に悲しいことでは、なかったでしょうか。

ユダは主イエス様を裏切ろうとしており、
ペテロは主イエス様を否定しようとしているのです。


それを聞いた弟子たちは、深い悲しみを味わったに違いありません。


主の慰め ー心を騒がすなー


信者の集まりに何が起こるか、私たちには、決してわかりません。
私たちは、今、神様の言葉に耳を傾けています。
しかし、私たちに悲しみをもたらす多くのことが起こり得ると、
私たちは、経験によって知っています。
私たちの人生を振り返ると、かつて集会に集っていた人が、
今は、いないことに気付きます。
それは、悲しみです。
私たちは、そのようなことを予期することができません。
イエス様が教えられるまで、
弟子たちは、ユダがイエス様を裏切ることを知りませんでした。
同じように、弟子たちは、ペテロがイエス様を否認することも知らなかったのです。
また、そのような考えさえも浮かびもしなかったのです。
しかし、これと同じようなことが神の集会でも起こります。
私たちが全く思いもしなかった人が、信仰の歩みから、外れてしまうことがあります。
そのようなことが起これば、私たちの心は騒ぎ、非常に悲しい思いに満たされ、
落ち込みます。
弟子たちが置かれていた状況に、私たちも身を置いてみましょう。
ユダは、主を裏切ろうとしていました。
ペテロは、主を否定しようとしていました。
しかし主は、そのことを良くご存知でした。
主は、御自身の弟子たちをご覧になって、


「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」
(ヨハネの福音書14章1節)


と言われたのです。
ここで主イエス様は、慰めの言葉を弟子たちに与えておられます。
主は、


「私は、ユダが私を裏切ることを知っている。
また、ペテロが私を否定することも知っている。
しかし、あなたがたは、心を騒がしてはなりません。」


と言われているのです。


主が心を騒がせたこと

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。
神を信じ、またわたしを信じなさい。」
(ヨハネの福音書14章1節)


この言葉は、非常に大胆であると思います。
なぜ、私がそう思うのかをこれから説明していきます。


主イエス様はここで、「心を騒がしてはなりません。」と言う、
非常に大切な言葉を用いられました。


ヨハネの福音書11章33節をご覧ください。
「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも
泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、」


この個所の「動揺を感じ」と、「騒がす」とは同じ言葉です。
主は、ここで、心を騒がせておられたのです。


次に、ヨハネの福音書12章27節をご覧ください。
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。
『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。
いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」


ここでまた、主の心は騒ぎました。

続いて、ヨハネの福音書13章21節をご覧ください。
「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、
あかしして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。』」


この個所の「激動を感じ」「騒がす」と同じ言葉なのです。
今日、みなさんが他のことを何も学ぶことができなくても、
今、お話した三つのことは覚えて下さい。
この三つの個所をを詳しく調べて下さい。


11章では、主イエス様は体のことで、心が騒ぎました。
12章では、主イエス様はたましいのことで、心が騒ぎました。
13章では、主イエス様は霊のことで、心が騒ぎました。


体、たましい、霊という三つのものが、人間を構成しています。
主イエス様は、三つの要素のそれぞれについて、心を騒がせになりました。



経験に基づく慰め

もう一度これらの個所を見て、心を騒がす状況に注目して下さい。

11章では、この方が愛された者が死にました。
12章では、この方ご自身の、いのちが取り去られようとしていました。
13章では、友が裏切ろうとしていたのです。


さらに、この13章の終わりでは、もう一人の弟子がこの方を否定しようとしています。
私たちに「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」と言われたのは、このお方です。
そして、主イエス様は、ここで私たちに慰めを与えて下さいました。
みなさんの中のある方は、愛する人を亡くされたかもしれません。
ある方は、たましいを揺さぶる試みを経験なさったかもしれません。
また、ある方は、霊に触れる経験をなさったかもしれません。
主イエス様は、そのような時の私たちの苦しみをご存知です。
なぜなら、主イエス様は、ご自身でそのような苦しみを経験されたからです。
主イエス様ご自身が、そのような苦しみを経験されたので、
あなたにに対して、
「心を騒がせてはなりません。」とおっしゃることができるのです。


心を騒がすことについて話を終える前に、ヨハネの福音書5章7節でもこの言葉が、
用いられていることに触れておきます。

「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。」

ここでは、池の水が「かき回される」と書いてありますが、
これが「騒がす」と同じ言葉です。
ここでの意味は、「水が揺り動かされた」ということです。
私たちの生活の状況が、集会生活の状況が、私たちを揺り動かすことがあります。
また、私たちを悩ませます。そのようなことを経験するとき、
主は言われます。


「あなたの心を騒がせてはなりません。」


信仰、希望、愛

信仰・希望・愛という三つのことについて、
簡単に触れておきたいと思います。

一つ目は、信仰についてお話します。
私が経験することによって、心を騒がせないためには、
私は主を信頼しなければなりません。
主イエス様は、

「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネの福音書14章1節)

と言われました。
どんなに状況が深刻であろうとも、どんなに大きな悩みをもたらすものであっても、
私たちにとっては、それらのことは、問題にはならないのです。
どのような状況であっても、私たちは、主イエス様を信じなくてはなりません。
なぜなら、主イエス様は、私たちの苦しみを本当に理解されているからです。
私たちの苦しみを本当に知っておられる方が、私たちを慰めて下さいます。
私たちが、心を騒がせるような、出来事に直面したとき、
私たちのするべきことは、主イエス様を信頼することです。

二つ目は希望についてお話します。
主イエス様は、

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、
あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、
わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネの福音書14章2節)


とおっしゃいました。
ユダが裏切ることを聞いて、弟子たちはつらい思いをしました。
ペテロが主を否定することを聞いて、弟子たちは、悲しい思いをしました。
今度は、主が、弟子たちから、去ると言われたのです。
これこそ、弟子たちにとっては、最も大きな衝撃であったに違いありません。
主が、私たちから、去ることを想像して下さい。
私たちの心は騒ぐのでは、ないでしょうか。
しかし主は、私は去るけれども、住まいを用意したら、
また戻ってくると言われたのです。
そこに、私の希望があります。
私は、主を信じます。主は私の希望です。
なぜなら、再び私のために来られるからです。

三つ目は愛についてお話します。
そして、主は言われました。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、
あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、
あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14章3節)


この節は、愛について語っていると私は思います。
みなさんがどのような経験をなさろうと、
それがどんなに悲しい経験であろうと、
ここに三つの慰めの原則があります。


信仰・希望・愛です。


トマスの疑い

さて、ヨハネの福音書14章5節では、トマスが登場します。
みことばの中でトマスがどのように書かれているかは、
みなさんもご存知だと思います。
かつて私が小さかったころ、伝道者の方がよく私の家に訪ねてみえました。
私は伝道者の方に、私の名前を聞かれるのがいやでなりませんでした。
なぜなら、私の名前は「トマス」だったからです。
一人の伝道者の方は、私の名前を聞くと、
「伝道者はみな、疑い深いトマスでは、ないでしょうか。」と冗談を言われました。
それを聞いた私は、トマスではなく、ロバートか何か他の名前であったら
よかったのに、と思いました。
私たちは疑うということをトマスと結び付けて考えます。
彼は、疑いを持つ者でした。
ここでトマスは、


「主よ、どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。
どうして、その道がわたしたちにわかりましょう。」
(ヨハネの福音書14章5節)


と言っています。
ヨハネがトマスについて言っていることは、とても興味深いことですが、
残念ながら今回は、慰めというテーマについてお話していますので、
それについてお話することができません。
トマスは、ヨハネの福音書の11章・14章・20章・21章に出てきます。
それらの個所をお読みになって、ヨハネの福音書でトマスがどのように
描かれているかお調べになって下さい。


新しい生ける道

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
(ヨハネの福音書14章6節)


ここで主イエス様は、トマスの疑いに対して答えることができました。
主イエス様は、心を騒がせていた弟子たちを慰められたように、
トマスの心の中にあった疑いをも静めることができました。
この節を読むと、非常に慰められます。
この節は主イエス様の口から出た、もっとも大きな答えの一つです。
トマスの心の中にあった問題がどのようなものであったにせよ、
救い主によって与えられた答えによって、その問題は解決しました。
主イエス様は、「わたしが道であり、」とおっしゃいました。
このすばらしい表現について考えてください。色々と考えることができますが、
私は、幕屋の中の祭壇に注目します。
神の御前に出るときは、祭壇の上でいけにえをささげることが常に必要でした。
ですから、主イエス様が、「わたしが道であり、」と言われたとき、
ご自分の死について、尊き血を流されることについて語っておられ、
ご自分が神の御前に出る道であると言っておられるのです。
私たちは、尊い主イエス様の血によって、神の御前に出るのです。

「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために
新しい生ける道を設けてくださたったのです。」
(ヘブル人への手紙10章20節)


「新しい生ける道」こそがキリストなのです。


御言葉による洗い

主イエス様は、私が真理であると言われました。
もう一度、幕屋を思い浮かべて下さい。
祭壇の横にあるのは、先盤、洗う所です。
祭司が幕屋で使えるためには、まず、先盤で自分を洗い清める
必要がありました。
主イエス様は、ここで、「わたしが真理であり」、と言われ、

ヨハネの福音書17章17節

「あなたのみことばは真理です。」

と言われました。
私たちを洗い清めるのは、神のみことばです。



主が私たちを神の御前に導く

主イエス様は、わたしがいのちであると言われました。
この言葉は、聖所を、神の直接の御臨在を、思い起こさせます。
ですから、私は自身にあふれるのです。
トマスがどのような疑いを持っていたとしても、その疑いは、
救い主がここで示された慰めによって、完全に解決しました。
そして、私たちも、このみことばによって慰められます。
私たちはカルバリに来ました。
祝福された方が、十字架にかかって、私たちのために死ぬのを見ました。
その方こそ、私たちを神の御前に連れていって下さる方なのです。
私たちは、今、神のみことばの中にいます。
みことばは、私たちを汚れから清めます。
私たちはいのちを、永遠の命を持っていることを知っています。
永遠の命によって、私たちは神の御前に出て、そこに永遠にいるのです。
ですから私は、トマスがこのような疑いを抱いたことを喜んでいます。
トマスに何か困難があったことを喜んでいます。
なぜなら、それを通して、私たちは偉大な答えを得ることができたからです。


私に似ているピリポ

次に出てくる弟子は、ピリポです。
イスカリオテのユダ、ペテロ、トマス、と続き、
ここでは、ピリポが出てきます。
ピリポは、私のような者であると思っています。
私は、時々、非常に鈍いと感じます。
私が計算しようとすると、とても長い時間がかかるのです。
私は、1936年7月1日にイエス様を信じて救われました。
みなさん、それからの年月を考えてみて下さい。
それなのに、私はあまりにも少ししか、イエス様を知らないのです。
なぜなら、私の心は鈍いからです。
私は、ときどき、聖書をなかなか理解できないと思い、
また、神様のみこころがわからないと感じます。
もし、私たちの目の前にすべてが示されれば、
理解するのがもう少し楽になるでしょう。
それがピリポがここで言っていることなのです。

「ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。
そうすれば満足します。』」(ヨハネの福音書14章8節)


ピリポは、もっとやさしくして下さい。
そうすれば問題は、解決しますと主に言っているのです。


神を見ることを望んだモーセ

みなさんは、ピリポと同じようなことを言った人を覚えているでしょうか。
それは、モーセです。
モーセは神様に向かって、

「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(出エジプト33章18節)

と言いました。
モーセもピリポと同じように、もし、神様を見ることができたら、
問題はすべて解決すると言ったのです。
それに対して主は、

「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、
なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33章20節)


と、仰せられたのです。
それでも主は、モーセのために、後ろを見せられました。

「わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、
わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。
わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、
わたしの顔は決して見られない。」(出エジプト33章22−23節)


もし、私たちがすべてを見ることができたら、確かに私たちの困難は解決します。
しかし、主はそのような方法をお取りになりませんでした。
主はピリポになんと言われたのでしょうか。

「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、
あなたはわたしを知らなかったのですか。」(ヨハネの福音書14章9節)


ピリポは、まるで私のようです。
私も、ピリポと同じように少ししか聖書のことを知りません。
私が救われてから60年以上の年月が流れているのに、
私は、聖書を知らないのです。
みなさんがピリポと同じような者だと思われるかどうかは、
私にはわかりませんが、私はピリポと同じような者だと感じるのです。



助け主の約束

主イエス様の答えは素晴らしいものでした。
実は、ピリポに対する答えは、ヨハネの福音書14章8節からはじまっています。


14章8節は、ピリポの願い、
14章9節は、ピリポの鈍さ、
14章10節は、ピリポの疑いです。
14章11節でピリポは、ただ信じなければなりませんでした。


「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。
さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネの福音書14書11節)


主のお答えの中から、一点だけを取り上げます。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主を
あなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、
ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。
世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、
知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。
その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
(ヨハネの福音書14章16−17節)


この個所が、ピリポに対する、
また弟子たちに対する慰めの重要な点であったと思います。
主はまもなく去ろうとしておられました。
ですから、弟子たちの心は絶望で満たされていたのです。
しかし主は、わたしが去っていくなら、もうひとりの助け主(慰め主)を
あなたがたに与えると言って下さいました。
主イエス様のこの言葉は、弟子たちに対して非常に大きな慰めとなりました。
ですから私たちは、この個所を考えたいと思います。
そして、神の霊が彼らに下った時のことを考えてみましょう。
弟子たちがそのとき経験した大きな力について、
弟子たちがその経験によって理解したことについても考えましょう。
そのときに大きな祝福が与えられました。
神の霊が来られたからです。



御言葉と聖霊

みなさん、このことを覚えて下さい。
今、私たちの前に御言葉があります。
ですから、私たちは想像に身を任せる必要はありません。
私たちは、みずからの力により頼まなくてもよいのです。
私たちは神の聖霊から力をいただくことができるのです。
なぜなら、聖霊は私たちのうちに住み、私たちとともにいらっしゃるからです。
ですから、私たちは鈍い者であってはいけません。
私たちは神の霊の心を持たなければならないのです。
ピリポは、聖霊降臨を経験したときに、
ヨハネの福音書14章で主から受けた教えに感謝したと思います。
この教えから慰めを受けましょう。あなたは集会に来て、学びを聞きます。
むずかしいと感じることがあるかも知れません。
聖書を読んで、理解できない個所にぶつかるかも知れません。
このような時、みなさんはどのように対処するでしょうか。
キリストの言葉に耳を傾けて下さい。
そして、聖霊の働きに委ねるのです。
そうすれば、豊かな真の祝福を経験することができます。



主がご自分を現す ー聖書に矛盾はないー

ピリポに対する言葉の終わりに、主はこのようにおっしゃっています。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、
わたし自身を彼に現します。」(ヨハネの福音書14章21節)


芋づる式という表現のように、ここで、一つのことから別のことが生じています。
主イエス様が「現すという言葉を使うと、イスカリオテでないユダは、
それを聞いてわからなくなりました。
なぜなら、このユダは、キリストが栄光のうちに現れることを考えていたからです。
彼は、その現われを待ち望むように教えられていました。


しかし主は、「彼に」、つまり個人に現すと言っておられるのです。

みことばを読んで、矛盾があると感じることがあります。
しかし、実際には矛盾がないのです。
ユダは、主の言葉に矛盾があると考えました。

「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、
世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
(ヨハネの福音書14章22節)


と、ユダは聞いています。
もしかすると、みなさんの中にも、聖書の中に、
矛盾があると考えている人がいるかもしれません。
しかし、聖書には、矛盾はありません。
私たちは、聖書のみことばによって、慰めを受けることができます。


父は私たちの内に住む

主は説明なさいました。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」
(ヨハネの福音書14章23節)


私たちもこのとおりにするでしょう。

「わたしの父はその人を愛し、」(ヨハネの福音書14章23節)

みなさんも父の愛を感じていらっしゃると思います。

「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
(ヨハネの福音書14章23節)


みなさんも、考えて下さい。
ここで、「ともに住みます」と書かれています。
この言葉は、この章の最初に出てくる言葉と同じです。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」
(ヨハネの福音書14章2節)


と、主は言われました。
私たちは、父の家に住むことを待ち望んでいます。
私たちは、主が来られることを知っています。
そして、そのときに、主は私たちを父の家に連れて行って下さいます。
しかし、あなたの心は、神様(聖霊)の住まいとなっているでしょうか。
それが、この個所の言っていることです。
私たちは、父の家に行くことを待ち望んでいます。
しかし、父は私の中に家を持っておられます。
このことは私たちにとって、なんと大きな慰めではないでしょうか。
私たちは、やがて父のところに行くことを待ち望んでいます。
しかし、父は今、私たちのうちに来て、住むことを望んでおられます。
ですから、主のこの言葉は、ユダにとって大きな慰めになったと思います。



もう一度「心を騒がすな」

最後の段落です。
ここで主は、弟子たち全員に対して語っておられます。
主は再び、助け主(慰め主)について語られました。
ヨハネの福音書14章27節では、わたしの平安を残すとおっしゃいました。
また、ヨハネの福音書14章の初めで述べられたことを主は、
繰り返して言われる必要がありました。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、
あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。
恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14章27節)


もう一度主は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」とおっしゃいました。
なぜなら、

「わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る」
(ヨハネの福音書14章28節)


と、主が弟子たちに約束なさったからです。



救い主は父を愛する

この学びの終わりに、最後の節を強調したいと思います。
なぜなら、このところがもっとも重要であるからです。
ヨハネの福音書14章では、父という言葉が23回使われています。
このことは私たちに、ヨハネの福音書14章を読む場合には、
父について考えなくてはいけないと教えています。
もしここで、主イエス様が父について言われていることを書き留めるなら、
非常に多い量になるでしょう。
この個所は、新約聖書の中でも際立っています。
ここは、新約聖書の中で救い主が父を愛していると言っている唯一の個所です。
主は父を愛しており、父のみこころを行います。
それは、主が父を愛していることを世が知るためです。
私たちも立ち上がって主に従おうではありませんか。


主は、どこへ行かれるのでしょうか。
主は、十字架に向かって行かれるです。
主は、苦難を受けようしておられます。
主は、父のみこころを行おうとしておられます。
それがどのような犠牲を強いるとも、
どのような苦難が待っていようとも、
主は父を愛することを、世に対して証明したいと言われたのです。

これらが、救い主の行われたことです。


私たちは、どうでしょうか。
私たちの状況を忘れましょう。
私たちの悲しみを忘れましょう。
私たちの問題を忘れましょう。
とりあえずそれらすべてを脇におこうではありませんか。
そして、自分にこのように尋ねて下さい。


私は、父を愛しているのか。
私は、父のために苦しむ用意があるのか。
私は、父に仕える用意があるか。


主は、私たちに語り掛けておられます。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」
(ヨハネの福音書14章23節)


私たちは、主イエス様のことばを守る者でありたいと思います。




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