聖書を正しく学びましょう
(クリスチャン向け)

紹介していますメッセージはすべて月刊誌
『みことば』に掲載されていたものです。


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慰め


トーマス・ベントリー

トーマス・ベントリー



羊飼いの慰め

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」 (詩篇 23篇4節)


この節については詳しく述べませんが、心に留めておいてください。
この節では、主のむちと杖が慰めを与えると書かれています。
むちと杖は羊飼いが用いる道具であり、
羊飼いを象徴するものです。
羊飼いは、それらの使い方を知っています。このすばらしい詩篇によると、
主が私たちの羊飼いです。
ですから主は、私たちを慰める方法を知っておられます。



聖霊の慰め

それでは、使徒たちが書いた書簡に移りましょう。

「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの
全地にわたり築き上げられて平安を保ち、
主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、
信者の数がふえて行った。」
(使徒 9章31節)


聖霊に「励まされて」と書かれていますが、この部分が「慰め」と同じ言葉です。
この節には慰めについて、別の重要な側面が示されています。すなわち、
慰めが聖霊と結びつけられていることです。
聖霊が与える慰めがあります。これは、私たちすべてが経験できるものです。
私たちの心を慰めることは、聖霊の働きであり、またみこころです。
この働きは、私たち救われた者がみな、経験することができます。
聖霊は私たち一人ひとりのうちに内在しておられます。
聖霊が私たちのうちに住まわれているので、
私たちは聖霊の慰めを経験することができます。



聖書の慰め

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。
それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、
希望をもたせるためなのです。」 (ローマ 15章4節)


ここ の「励まし」が、「慰め」と同じ言葉です。
詩篇と使徒の働きで見たように、私たちは羊飼いによって慰めを受け、
聖霊によって慰めを受けます。
この節には、聖書によって慰めを受けることが書かれています。ですから、
わたしたちは聖書を毎日読みます。
私たちは聖書を毎日読むことによって慰めを受けようとしているのです。



あらゆる慰めを与える神

「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、
すべての慰めの神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、
どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」
(コリントU 1章3−4節)


この節は説明を必要としないと思いますが、ここで使徒パウロは、
神は、慰めの神であると言っています。
神は、あらゆる種類の慰めを与えてくださるお方です。
すなわち、神はあなたが個人的に必要としている
慰めを与えることができます。
ですから、神のみもとにいけば、
個人が必要とする慰めを見出す事ができます。
もし、あなたが、お店に行って何かを買おうとして、
「これこれの物をください。」と、言ったとします。店員が、
「残念ながら置いてありません。」と、言うかも知れません。
お店には色々なものが置いてありますが、
それでもあなたが欲しいものはなかったのです。
しかし、神のもとに行ったときには、そのようなことは決してありません。
もし神のみもとに行って、あなたが必要としている慰めを求めたら、
私の所にそれはないと、神は決しておっしゃいません。
おわかりでしょうか。神はつねにそれをお持ちなのです。
神はすべての慰めを、お持ちのお方です。
神はあらゆる種類の慰めを持っておられます。
あなたの環境の中で必要とする慰め、
また私の環境において必要とする慰めをお持ちです。
神様は本当にすばらしいお方です。



イザヤ書40章 −完全なしもべ−

もう少しこの主題について、広い範囲で見たいと思います。
イザヤ書40章を読みましょう。


「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。
『エルサレムに優しく語りかけよ。
これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。
そのすべての罪に引き替え、
二倍のものを主の手から受けたと。』
荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、
私たちの神のために、大路を平らにせよ。
すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。
盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
このようにして、主の栄光が現わされると、
すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。』」
(イザヤ書 40章1−5節)


このイザヤ書40章は、とても重要な章です。
まず第一に、この章はイザヤ書の新しい
区切りの始まりになっています。
その区切りは40章から66章までで、
主題はエホバの完全なしもべです。
それはすべて、私たちにとって非常に
興味深いテーマではないでしょうか。
しかし、今回は慰めという主題に限ってお話ししたいと思います。



主イエスの預言

その前に、この40章はきわめて預言的な性格を持っている事に、
一言触れて置きます。
ユダヤ人がきらいな聖書の書物の一つは、
イザヤ書であることをご存じでしょう。
非常に熱心な一人のユダヤ教徒が、イザヤ書は読まないと言ったそうです。
その理由は非常に明白です。
なぜならイザヤ書は、私たちの主イエス様について
とても多く語っているからです。
イザヤ書を読む者はだれも、それが私たちの主イエス様に
ついて語っていることを知ります。
ですから、私たちはイザヤ書が好きです。私もイザヤ書が好きです。
40章は、主イエス様の最初の来臨を預言しています。
そしてまた、主イエス様の再臨も預言しています。
再臨の時には、主イエス様が栄光のうちに現されるのです。
残念ながら、今回はこのことをお話しすることができません。



心にやさしく語りかける

それでは、最初の二節を考えましょう。
ここでは、神がそのしもべに、
神の民の慰めについて語るように言っておられます。
神がそのしもべに、慰めについて語るようにと言っておられるのは、
興味深いことではないでしょうか。
今回はこの慰めというメッセージについてお話ししたいと思います。
神は「慰めよ、慰めよ」と繰り返して言われました。
それは、神の民が慰めを必要としていたことを示しています。
また、彼らは慰めを必要としていただけではなく、
その慰めがただちに必要でした。
神はエルサレムの民の心に語りかけるようにと言っておられます。
私たちは頭脳に語り掛けがちです。
しかし、ここでは心に語り掛けるようにと、神は言っておられます。
「優しく語りかける」というのは、とてもうるわしい言葉です。
英語では「慰めるように」と訳されています。
この言葉が旧約聖書のどこに出てくるか、
コンコルダンスを使って調べてみてください。
その例としては、
創世記50章、士師記19章、ホセア書2章にでてきます。



平安のメッセージ

私たちが悲しみの日、困っている時に
必要なものはなんでしょうか。
私たちは、心にやさしく語りかけてくれる
メッセージを必要とします。
このメッセージは私たちに平安をもたらします。
またそれは、私たちに許しをもたらします。
私たちを慰めてくれます。
神の平安を楽しむのは、大変素晴らしいことです。
それは、私たちの心を守るものとして働きます。
ですから私たちは、神からの平安のメッセージを必要としています。
それではこの個所は、私たちにどのようにあてはまるでしょうか。
3節から8節をご覧下さい。
神がどのようにしてこのメッセージを神の民にもたらそうとしたか、
が書かれています。
実はこれはバプテスマのヨハネによって成就されたのです。
そしてまた、エリヤと呼ばれる者によって、
将来もう一度成就されます。



敗北に対処する

イザヤ書40章4節をご覧ください。
4節には、四つの重要なことが書かれています。
私たちが助けを必要とする四つのことです。
ですからこのことについて、注意深く説明したいと思います。

最初に「すべての谷は埋め立てられ」と書かれています。
英語では、「谷が持ち上げられている」と訳されています。
このみことばは、私たちに対して、
どのような意味があるとみなさんは思われますか。
この谷というのは、私たちの敗北の経験について
語っていると考えて下さい。
私たちは敗北します。私たちには、まだ罪の要素が残っています。
ローマ人への手紙6章でパウロは
「罪はあなたがたを支配することがない」と書きました。
しかし、私たちは、しばしば罪によって敗北をこうむるのです。
私たちは敗北することを恐れます。私たちが聖書を読む時、
私たちが祈る時、私たちが神様のために聖く生きようとする時、
たびたび、私たちは失敗するのです。
慰めのメッセージは、すべての谷が埋め立てられることです。
みなさんも、神に対して責任を果たすことに失敗したという経験が
あると思います。
慰めのメッセージは、神がその経験に対処することが
おできになるということです。
神はそれに対処するのに豊かな力を持っておられます。
ここでは、谷が埋め立てられています。
すなわち私たちの失敗を神が埋めて下さるのです。



疑いの山を除く

次に、「すべての山や丘は低くなる」と書かれています。
山は疑いの山であると考えて下さい。
私たちが、神に対する信仰を実行したいと考えたとします。
しかし、山が非常に高いように見えます。神がそれを除くことができると、
私たちは信じられないのです。
主イエス様は何と言われたのでしょうか。
山に向かって、海に移れと言われたのです。
みなさんは、私たちにはそれは不可能だと言われるかも知れません。
しかし、私たちの人生では、自分の力では
どうすることもできない色々な困難な状況が襲い掛かります。
信仰でもって乗り切らなくてはいけないことが起こります。
そして、信仰で持ってその状況に立ち向かおうとした時、
それは山のように見えるのです。
私たちの心の中は、神に対する疑いでいっぱいになり、
その問題から抜け出すことができないように勘違いしてしまいます。
しかし、ここに神のメッセージがあります。
谷は埋め立てられ、山は低くされるのです。
私たちの困難な状況は神によって取り除かれ、
不信仰のゆえの失敗は、神が埋め立てて下さるのです。
そして、私たちの目の前には平地が広がっています。



あざむきを解決する

「盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる」
(イザヤ書40章4節)


英語では「盛り上がった地は平地に」の代わりに、
「曲がった道がまっすぐに」と訳されています。
曲がりくねった道のことを考えて下さい。
もし、そのような道を運転するならば、見通しがきかないので、
何が現れるかわかりません。もし、それがまっすぐな道ならば、
対向車や障害物を見ることができます。
私たちが曲がりくねった道を走っているのなら、見通しがきかないので、
突然、対向車が飛び出して来ることもあります。
そして、事故に巻き込まれるようなこともあります。
私たちの実際の生活において、そのようなことを経験します。
私たちの人生に、私たちを悩ませ苦しめるような問題が起こります。
私たちが、人生を見通すことができるのなら、
その問題を避けることができたかも知れません。
残念ながら、私たちは人生を見通すことはできません。
私はそれをあざむきと呼びます。私があなたと生活を共にするのなら、
私もあなたも互いに信頼するこを望みます。
しかし、私たちの人生では、信頼する相手にあざむかれるという
事態が起こります。
その結果、私たちは落胆し、絶望に陥ります。
曲がりくねった道を運転していても、私たちには先が見えないので、
犬が予期しない時に当然飛び出してきてぶつかるかも知れません。
人生も同じようことが起こりえます。
この人は絶対に信頼できると思っていた人に、突然裏切られたり、
あざむかれたりします。それが私たちの人生です。
主は、そのような曲がりくねった道をまっすぐにするといわれました。



壊れたものを修復する

最後に「険しい地は平野となる」と書かれています。
今回も自動車を運転することを考えて下さい。
日本には立派な道路がありますが、
全ての道が舗装されて要るわけではありません。
石ころが、ごろごろしているような道もあるでしょう。
そういう道をみなさんが運転しているとすれば、
車のどこかに故障が起こるかも知れません。
車の性能が今ほどよくない昔には、そのようなことがよくありました。
でこぼこ道を運転していると突然車が壊れて、止まってしまうことが。
私たちの人生もそのようなものではないでしょうか。
人生という道を歩んでいると、舗装された道路もあれば、
でこぼこ道もあると思います。
そして、車が突然壊れてしまうように私たちの人生も、
当然何かが起こって、
何かが壊れてしまうことがあります。
しかし、神は「険しい地は平野となる」と言われました。
もし、平らな道を運転しているとすれば、
突然、何かが壊れてしまうことはありません。
これが、神の民に神が言われていることです。
ここに慰めの約束があります。
このように表現しましょう。
あなたは敗北しているでしょうか。
神の素晴らしさについて、疑いを抱いているでしょうか。
何かのあざむきの行為によって、心を乱されているでしょうか。
交わりが壊れたことで、心を乱されているでしょうか。
これらは神の民が毎日経験することです。
しかし、ここで神は、それらとは全く違うことを約束しておられます。
あなたの失敗の敗北は、神が埋めて下さいます。
あなたの神に対する疑いは、神が取り除いて下さいます。
あなたが人のあざむきによって心を乱されているのなら、
神がそのあざむきを正して下さいます。
あなたが人との交わりが壊れたことで悩んでいるのなら、
神が壊れたものを修復して下さいます。
これが私たちの慰めです。



打ち負かされない神

神は、どのような神でしょうか。
この章の終わりの部分を読むと10節では、
だれも神を打ち負かすことができないことを知ります。
さきほど敗北について語りました。
今、ここにいる私たちは、簡単に打ち負かされてしまいます。
しかし、10節で、神について書かれていることをご覧ください。
「神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める」
と書かれています。
ですから神を打ち負かすことは、だれにもできません。
神はすべての力を持っておられます。
もし、私たちが今それを必要とするのなら、
私たちは神の言葉をひもといて、
私たちを愛する神の偉大さを覚えます。
神は強いお方です。神は力を持っておられます。
私たちがどのようなことを経験しようとも、
神はその経験に対処することがおできになります。



羊飼いなる神

「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。
エルサレムに良い知らせを伝える者よ。
力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。
『見よ。あなたがたの神を。』見よ。
神である主は力を持って来られ、その御腕で統べ治める。
見よ。その報いは主とともにあり、
その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、
御腕に子羊を引き寄せ、
ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」
(イザヤ書 40章9−11節)


11節によると、神は羊飼いのように、その群れを飼います。
これは非常にうるわしい状況ではないでしょうか。
詩篇の23篇を読みました。
イザヤ書のここにも同じことが書かれています。
私たちの神は、力の神です。
しかし、神は同情の神でもあります。
神は、羊飼いである神です。



御腕に引き寄せる

神は「御腕に子羊を引き寄せ」と書いてあります。
腕には力があります。その腕は私たちを祝福しようとしています。
神は私たちをふところに抱きます。
なぜなら、私たちを愛して下さるからです。
神は私たちを愛して下さいます。
母親と赤ん坊のことを考えて下さい。
母親はその子どもを腕で抱え、力強く、同情をこめて、
愛情をこめて腕に抱くのです。
それは神が、私たちに対して行われることです。



やさしく導く

「乳を飲まれる羊を優しく導く」と書かれています。
これもまた、うるわしい姿ではないでしょうか。
このみことばの意味は、子どもを産んだばかりの羊のことを
語っています。
その母羊は、子どもを産むことに非常な力を使いました。
ですから、母羊は群れについてゆくことができません。
それでは、このような時、羊飼いはどのようにするのでしょうか。
羊飼いは、そのような羊をやさしく、愛情をもって導くのです。
みなさんも最近、そのような経験をしたのではないでしょうか。
私たちの霊的な力が尽き、疲れ果ててしまいます。
そうすると、あなたは、ほかの兄弟姉妹に
ついていくことができないと感じます。
神はあなたを見捨てるでしょうか。決してそんなことはありません。
神は羊飼いです。神はあなたをやさしく導いてくださいます。
このことは、私たちに大変な慰めを与えます。
このようなお方が、私たちの神です。
このようなお方が、私たちが信頼する救い主なのです。



神を教えてはならない

さらに進みましょう。
13節には、
「だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか」
と書かれています。
このみことばは、重要な節です。
このみことばについて考えてみて下さい。
あなたがどのような状況におかれているか、私にはわかりません。
また、あなたがどのような経験を今までに、
してきたのかも、私にはわかりません。
あなたも私の経験を知らないと思います。
しかし、この節に私たちが注目しなければならないことがあります。
私たちが絶望する時、わたしたちは神に叫び求めます。
神に私たちの必要を告げます。
そのような時のために、私はあなたに霊的な助言をしましょう。
「そのままにしておきなさい」
神に、神が何をすべきかということを告げようとしてはいけません。
残念ながら、私たちはそのような失敗をしやすいのです。
13節には、
「だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか」
と書かれています。
あなたは私に教えることができるでしょう。
しかし、神は教えられる必要のないお方です。
私たちは、神に何をすべきかを教えてはならないのです。


神をなぞらえてはならない

「あなたがたは、神をだれになぞらえ、
神をどんな似姿に似せようとするのか」
(イザヤ書40章18節)


みなさんは、私と同じように、生ける神を礼拝していることを
喜んでいると思います。
私は、四十年間マレーシアで宣教師として働いてきましたが、マレーシアでは、
事実上すべての町が偶像で満ちています。
彼らは神を何かになぞらえようとしているのです。
彼らは偶像を指し、神はこれだと言います。
しかし、そんなことは絶対にありえません。
私たちはそのことをよく知っています。
私たちは、私たちの神を知っています。
神を私たちが知っているものになぞらえることは、絶対にできないのです。
なぜなら、神はすべてに勝っているお方だからです。



神は知っている

イザヤ書40章27節を見て下さい。
私はこの節は、非難であると考えます。
ここで、神は、神の民に呼びかけています。

「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。
なぜ、言い張るのか。
『私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、
私の神に見過ごしにされている。』と」
(イザヤ書 40章27節)


私は、みなさんが神に対して、
このようなことを言っていないことを望みます。
神は、こう言っておられます。
「イスラエル人は、『神は彼らの必要を知らない。』と言っている。」
人間はそのような考えを持ってしまいがちです。
日本のみなさんは、私と同じような経験は、しておられないと思います。
ですから、私の経験を理解することはできません。
しかし、神は、すべてをご存知です。
私が、「私の道は、主に隠れている」と、言うことはできません。
イエス様が弟子たちと一緒に船に乗っておられた時のことを、考えて下さい。
主イエス様は、激しい突風の中、寝ておられました。
ペテロたちは、言いました。

「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
(マルコ4章38節)


その時のペテロたちは、イザヤ書40章27節のイスラエル人と
同じことを言っています。
「主は、私たちの必要を見ておられない。主は、寝ている。」
みなさんは、このようなことを、決して言わないで下さい。
主は、風をおしかりになり、不信仰な者すべてをおしかりになりました。



神は疲れない

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神。地の果てまで創造された方。
その英知は計り知れない」
(イザヤ書 40章28節)


永遠の神は、けっしてお疲れになることはありません。
神はたゆむことがないのです。
地の果てまで創造された方は、つかれることもたゆむこともありません。
ですから、この個所を読んで、励ましを受けて下さい。

「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」
(イザヤ書40章29節)


29節の「疲れる」は、重要な言葉です。
この言葉が聖書のどこに出て来るか、探してみて下さい。
例として、五つの興味深い個所を挙げることができます。
今回はその中の一つだけをお話します。
ダビデがゴリアテとの戦いに出たとき、彼は力がありました。
なぜなら、そのときダビデは神を恐れていたからです。
そして、彼はその巨人ゴリアテを倒しました。
しかし、サムエル記U21章16−17節では、
ダビデは疲れていたために、もう少しで、
ペリシテ人に殺されるところでしたが、
部下のアビシャイによって命を救われました。
このことは私たちにとってのメッセージです。
ある日、ダビデは疲れませんでした。
しかし、別の時に、彼は疲れたのです。
今日は、私は疲れません。しかし、明日はちがうかもしれないのです。
イザヤ書40章29節では、
神は「疲れた者には力を与え」と教えられています。
「精力のない者には活気をつける」と書かれています。



若者も倒れる

「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる」
(イザヤ書40章30節)


若い人というのは疲れない者だと、私たちは考えます。
なぜなら、若い人は、若くて、活力に満ちているから、
決してつまずき倒れることはないと思います。
年をとっている者は、残念ながら、走ったりすると、容易に疲れます。
しかし、みことばは、若者も倒れると記しています。

二つの例を見てみましょう。

一つ目は、使徒の働きの13章です。
そこにはマルコという、若い男がでてきます。
彼は、残念ながら倒れたのです。バルナバもパウロも倒れなかったのですが、
マルコは失敗しました。
マルコは主のために働くことをやめました。
彼は若い男だったのに、主の働きから去っていきました。
彼にとって、働きはあまりにも大変だったからです。

二つ目は、使徒の働きの20章です。
パウロがトロアスに行ったとき、ユテコという男が眠り込んでしまい、
三階から落ちました。
彼も、若い男だったのです。

イザヤ書40章30節を見ると、
「若者も疲れ、若い男もつまずき倒れる」と書かれています。
私は、今、二つの例をお話しました。
若者も疲れ、若い男もつまずき倒れるということを心に留めておいて下さい。



待ち、上り、走り、歩く

「主を待ち望む者は」
(イザヤ書 40章31節)


私たちは、どこに力の源があるのでしょうか。
ここに秘密があります。
「待ちなさい」。それは、すなわち祈りをもって待つということです。

「主を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」

と書かれています。

鷲がどのように天高くまで上がることができるか、
みなさんもご存知だと思います。
鷲がそのように高く上がったとき、どんなものが見えるのでしょうか。
そのように天高く上がれば、今までとは、
全く違ったものの見方が、できると思います。
主イエス様は、私たちが置かれた状況からはるか高く、
私たちを主のおられる天の高みまで、
上られてくださるのです。そうすると、その時に私たちは、
置かれた状況を別の角度から見ることができます。
残念ながら、私たちはそこに留まることはできません。
また、降りてこなければなりません。
その次は、走るということです。聖書の中で走っている人は、
つねに何かのメッセージを持っています。
あなたへのメッセージであり、私へのメッセージです。
そして、最後に歩くことができます。
私たち、主を待ち望む者は、歩いても疲れません。




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