聖書を正しく学びましょう
(クリスチャン向け)

紹介していますメッセージはすべて月刊誌
『みことば』に掲載されていたものです。


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荒野にて (カデシュ・バルネア)

滝川晃一


「ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。」
(申命記1章2節)


この行程は約300キロあります。女、子ども連れのイスラエルの民族には、
かなりの強行軍でした。
しかし、乳と密の流れる約束の地カナンは、目の前です。
南端のベエル・シェバは三日の道のり、80キロしかありません。
決断の地カデシュ・バルネアで、不信仰な選択をしたイスラエルの民は、
その三日の距離を四十年かけて荒野をさまようという、神様のさばきを受けました。

「主はモーセに告げて仰せられた。『人々を遣わして、わたしがイスラエル人に
与えようとしているカナンの地を探らせよ。』」(民数記13章1−2節)


この命令は、申命記の記事と比べて学ばなければなりません。

「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」
(申命記9章23節)


これが神様の命令でした。
彼らが信仰に立ってカナンに攻め入ったなら、
約束の地をすぐ手に入れることができたのです。

「あなたがた全部が、私に近寄って来て、『私たちより先に人を遣わし、私たちのために、
その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、
報告を持ち帰らせよう。』と言った。」(申命記1章22節)


このように不信仰なイスラエルの民の申し出を受けたので、
神様が十二人の斥候の派遣をモーセにお命じになったのでした。

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、
また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
(ヨハネの福音書20章25節)


これが不信仰な者の態度です。
見なければ信じないトマスの不信仰に対して、主イエス様は、

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、
わたしのわきに差し入れなさい。」(ヨハネの福音書20章27節)


と、お許しになりました。
カデシュ・バルネアでも、自分の目で確かめなければ信じない、
というイスラエルの民の不信仰な申し出を許されたのです。



十二人の斥侯

各部族を代表する十二人の斥侯はカナン地方を縦断し、
ヨルダン川の上流のレホブまで行きました。
外敵に厳重な警備をしていたカナン地方では、奇跡的な働きでしょう。
帰路はネゲブのヘブロンに回り、近くのエシュコルの谷から、
一ふさのぶどうを切り取って帰りました。
二人で担いだのですから、どれほど豊かな実りかがわかります。
神様が見せたかったのは、彼らがこれから入って行く
「乳と密の流れる地」の祝福ではなかったのでしょうか。


十二人の斥侯は同じ体験をして、同じものを見たのです。


それなのに、結論は十人と二人の真っ二つに別れました。
その原因は、信仰と不信仰であることは明らかですが、
その一つ一つを詳しく考えたいと思います。

「そこにはまことに乳と蜜が流れています。」(民数記13章27節)

その点について十二人の意見は一致していました。
証拠のくだものもあるのに、


「しかし」

と続きます。
以前、列王記第一、17章のエリヤとツァレファテのやもめの女に関する
学びを読んだことがあります。

「あなたの神、主は生きておられます。」(T列王記17章12節)

と女は言いました。
次に困窮している現状を色々並べ立てます。

「かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。」
(T列王記17章12節)


結論は「それを食べて死のう」というものでした。
やもめの女の神は、生きておられるとは言えません。


その不信仰の方程式を、エリヤが信仰の方程式に変換した
のだと、その学びは言います。

エリヤはまず現状を並べ、最後に

「主が、こう仰せられる」(T列王記17章14節)

と置きました。
そうすれば、

「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」
(T列王記17章14節)


との結論に達するのです。

カデシュ・バルネアでも同じことが言えるでしょう。
約束された乳と密の流れている地を見ていながら、

「しかし」と困難は現状を並べ立てています。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、
私たちはそこでアナク(巨人)の子孫を見ました。」(民数記13章28節)


その結論は、

「私たちはあの民のところに攻め上れない。」(民数記13章31節)

と、いうものでした。
反対にカレブとヨシュアは、

「上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13章30節)

という結論を出したのです。
その差は、何によるものでしょうか。
カレブとヨシュアは、いろいろな現状の最後に


「主が私たちとともにおられるのだ。」(民数記14章9節)

という信仰を置きました。
それで、

「彼らは私たちのえじきとなる」(民数記14章9節)

との確信を持つことができたのです。



いなごのように

「自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
(民数記13章33節)


不信仰の目には、目の前の問題が大きく見え、
神様の力が、小さく見えるのです。


子どものころ、「少年倶楽部」で鶏の目の記事を読んだことがあります。
自分より強い鶏は大きく見え、弱い鶏は、小さく見えるというのです。
群れの一羽がいじめられるのを見ると、その鶏が小さく見えてきて、
みなでいじめるといいます。
現代社会のいじめと同じではありませんか。
解決法は、いじめている鶏を縛り、いじめられた鶏に突っつかせるのです。
そうすれば、大きい鶏が小さく、小さい鶏が大きく見えてきて、
そのいじめが止むのだそうです。

あなたは、自分がいなごのように見える信仰生活をしていませんか。
もし、悲観的な信仰の中にいるなら、
抱えている問題や悩みを先に述べ、


「神にとって不可能なことは一つもありません。」
(ルカの福音書1章37節)

というみことばを、最後に置いてご覧なさい。
大きく見えていた問題や悩みが小さくなり、


「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」
(ローマ8章31節)

という確信に立つことができるでしょう。



麗しい地を

「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。」
(民数記13章32節)


神様がお怒りになったのは、イスラエルの民が、
カデシュ・バルネアで不信仰な選択をしたからだけではありません。
神様の祝福の地をさげすみ、ばかにしたからです。

「しかも彼らは麗しい地をさげすみ、神のみことばを信ぜず」
(詩編106編24節)


神様の祝福の地である乳と密の流れる地を、食い尽くす地だとさげすんだのは、
神様の恵みとその栄光をあざけることでした。
私たちクリスチャンも、

「天にあるすべての霊的祝福」(エペソ1章3節)

を与えられ、

「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」(Tペテロ1章4節)

が約束されています。
これは、主イエス様の十字架の御死と復活によって、私たちに与えられたものであり、
私たちは、

「天の故郷」(ヘブル11章16節)

である御国に向かって旅をしているのです。

もしかするとみなさんは、
「イスラエルの民と違い、私たちクリスチャンの中で、
神様の祝福をさげすむ者はいない。」と、言われるかも知れません。
私たちは、

「私たちは土で造られた者(アダムによる肉の性質)のかたちを持っていた
(文語訳・口語訳では『いる』)ように、
天上のかたち(イエス・キリストによる霊の性質)
をも持つ」(Tコリント15章49節)


とあるように、霊と肉、両方の性質を持っているのです。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます」(ローマ8章5節)

私たちの肉の性質は、地上の富や現実の快楽を尊重し、
天上の祝福や永遠の御国をさげすみます。

「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を
売ったエサウのような俗悪な者」(ヘブル12章16節)


の性質が、あなたの中にもあると思いませんか。

「血肉のからだは神の国を相続できません。」(Tコリント15章50節)

神様の祝福された地をさげすんだイスラエルの民は荒野をさまよって、死に絶え、
新しく生まれた民だけが約束の地カナンに入ったように、
キリストにあって新しく生まれた霊的な体だけが、新天新地に入って行くのです。
もし、クリスチャンが、肉的な性質に仕えて地上の生涯を終えるなら、
木・草・わらで建てた家のように、

「キリストのさばきの座」(Uコリント5章10節)

の火に焼かれて、何も残りません。
しかしその人自身は、

「火の中をくぐるように」(Tコリント3章15節)

して、天の御国に入ります。

地上の生涯に対する悔いは、永遠に続くことでしょう。



御前の破れ

「もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、
御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」(詩編106編23節)

不信仰なイスラエルの民は、モーセたちを殺して、
エジプトに帰ろうと言い出しました。
神様の御怒りは頂点に達し、モーセに言われました。

「わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、
あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」
(民数記14章12節)


モーセたちを殺そうとする民を滅ぼし、
モーセの子孫を選民にしようという神様の提案です。
ところがモーセは、自分を殺そうとするイスラエルの民のために、
取りなしをしたのでした。

「どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」
(民数記14章19節)


「破れに立つ」

というのは、神様の栄光のため、民(集会)のため、自分の立場を捨てて
立ち向かう働きを言います。
モーセは、

「主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかった」
(民数記14章16節)


と、主の御名がそしられることを恐れ、同胞のイスラエルの民が
滅ぼされることを悲しんだのでした。


あなたの属する集会の中に、このうような信者がいたら、いえ、
あなた自身が破れに立つ人であれば、何と幸いなことでしょう。
モーセの必死の取りなしにより、イスラエルの民は救われたのです。



ホルマの敗北

「その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。」
(民数記14章37節)


モーセは神様の裁きをイスラエルの民に告げました。
民はひどく悲しんだ、と書かれていますが、
彼らが不信仰の罪に気がついたわけではありません。

「翌朝早く、彼らは山地の峰のほうに上って行こうとして言った。
『私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。』」
(民数記14章40節)


とにかく・・・行ってみよう。
なんと無責任な言葉でしょう。
信仰は全く無視されています。

「主はあなたがたとともにはおられない。」(民数記14章43節)

という、モーセの忠告を聞かないで、

「それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。」
(民数記14章44節)


のです。
妻デリラに裏切られたサムソンが、髪七ふさを切り取られ、

「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。」
(士師記16章20節)


とペリシテ人の前に出て行き、目をえぐられたように、
イスラエルの民もアマレク人たちに敗北し、ホルマまで追われました。

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
(ヨハネの福音書15章5節)


このことは、今のクリスチャンにも言えることではありませんか。

「信仰から出ていないことは、みな罪です。」
(ローマ14章23節)


決断の地カデシュ・バルネアは、私たちに不信仰の恐ろしさを示し、
信仰に生きることの大切さを教えているのではないでしょうか。


「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
(ヘブル11章1節)





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滝川晃一兄の著作「暗やみから光へ」

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暗やみから光へ

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滝川晃一
新書版
81ページ


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(税込み)


215円
聖書、神、キリスト、
罪、贖い、復活、
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