慰め


第二章 「短生園」

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日記

昭和16年5月1日 (1941年)



何から話そうかと悩みましたが、簡単に私の幼い頃の想い出をお話します。私の育った家庭は決して裕福とは言えませんでしたが、両親は私に十分すぎるほどの愛を注いでくれました。
母の口癖は、私に誤る事でした。

「ごめんね。めぐみちゃん。全部おかあさんが悪いの。めぐみちゃんの目が見えないのは、すべて、おかあさんのせい。ごめんなさい。」

医学で私の目が治らない事を知った母は、毎日、氏神様へお参りするようになり、その信仰は側目からも、鬼気迫るものがありました。
雨の日も、雪の日も、台風の日でさえも。お参りを欠かさなかった母の願いは、ただ、奇蹟を望む一心からだったと思います。

「めぐみちゃん、おかあさんね、この頃よく夢に見るの。朝、目が覚めるとめぐみちゃんの目が見えるようになっていて。めぐみちゃんはその目で真っ直ぐにお母さんを見て言うのよ。おかあさん、おかあさんの顔が見えるよ。」って・・・。

母は、このような私に何とか一人で生活していけるようにと、幼い頃より、お裁縫を教えてくれました。お陰で、私が12歳に成った時には、ご近所のみなさんの仕立てを頼まれるまでになっていました。

こんな私にも、好きな人がいました。私より2歳年上の幼なじみの幸田登さんです。幼なじみの登さんは、近所の子供たちからいじめられた時、体を張って、その子供たちから私を守ってくれました。私が17歳の時に、登さんが結婚を申し込んで下さったのです。それを聞いた私は、とても嬉しかったのですが、私には登さんのお嫁さんになる資格がないと思い込み、

「目の見えない私が、登さんのお嫁さんになることはできません。」

「めぐみちゃん、僕がめぐみちゃんの目の変わりになるよ。幼い時よりめぐみちゃんを守ってきただろう。これからもめぐみちゃんを守り続けるよ。」といわれた時には、涙がとまりませんでした。あまりの嬉しさに、その後のことは、余り覚えていません。
登さんのご両親も、盲目である私をこころよく嫁に迎えてもいいと、言ってくださり、私たちは、間もなく婚約しました。

私にもやっと幸せが訪れ、夢のような日々を過ごしていたある日、私のあごに、二つのいぼみたいな吹き出物ができたのです。初めは、私も、母も気にもしなかったのですが、二週間が過ぎても吹き出物はなくなりませんでした。母に連れられて行った、病院での診断は、私のすべてを奪うものでした。

「この病気の者は、療養所に入所していただくことになります。」


私には、何が何んだか理解できませんでした。病院の帰り道、母が声を押し殺して泣いているのが、かすかに聞こえ、母の様子から自分の病気が普通のものでないことを、何となく悟りました。それからの、短生園に入所するまでの間は大変つらいものでした。急に近所の人たちが、家に寄り付かなくなり、人が来たかと思うと

「お前は汚らわしい病気にかかっているから、この家を消毒する。」

と言われ、消毒された後の、突き刺す臭いに目まいを覚えました。

「おとうさん、おかあさん、私の病気はそんなに汚らわしいものなの。お願い隠さずに教えて。」

私の必死の姿に、ついに母が聞き取れない程のか細い声で、言いました。

「おまえの病気は、らい・・・なの。」


癩・らい・癩病。


私は、癩がどのような病気か知っていました。近所のおばさんの実家の村で、癩にかかった人がいて、一家全員が自殺した。と聞いたのを想い出したからです。その話を聞いた時、この病気になった者は生きてはいけないんだと、思いました。あまりのショックに、声も出なかった私を母は泣きながら抱きしめて、

「なぜ、めぐみだけが、このようなめにあわなくてはいけないの。私の、かわいいめぐみが。」

その後のことは、あまり覚えていません。

ただ、短生園に入所する前日。

「めぐみちゃん。めぐみちゃん。」

「ごめんね、めぐみちゃん。逢いに来たかったけど、どうしても両親が許してくれなかったんだ。」

そう言って登さんは、窓から家に入り込み、私の隣に座りました。

「めぐみちゃんの病気が一日も早く治るように氏神様に毎日お祈りするよ。早く病気を治して、必ず結婚しようね。」

嬉しかった。のぼるさんの言葉は、生きる希望さえもなくしていた私にとって、何よりも嬉しかった。

「ありがとう、のぼるさん。私とっても嬉しい。のぼるさんが来て下さるまでは、毎日死ぬ事だけを考えていたから。」

「それじゃー。これで帰るね。めぐみちゃん。めぐみちゃんと一緒に居ることが母さんに知れたら、母さんは、きっと卒倒するからね。」

その言葉は、私の心を深く突き刺しました。

私は、卒倒してしまうような、忌み嫌うべき存在になったの!

改めて、汚れた者としての実感が沸いて来ました。


短生園に旅立つ日、母は涙をこらえながら、

「めぐみちゃん、おかあさんも一生懸命、氏神様に病気が治るように願掛けするから。めぐみちゃんも、何があってもくじけずに、がんばってね。」

と、言った母の言葉が、今も私の耳から離れません。


昭和6年 (1931年)秋。19歳の時に藤島恵は短生園に入所した。



短生園は、岡山県南東部、片上湾と日生(ひなせ)湾の沖に点在する日生諸島東端の島で、東西に約6kmと細長く、数カ所に狭くくびれた地峡がある短島の東部にあった。

短島短生園に入所して、まず驚いた事は、療養所と聞かされていたのに、そこはまさに療養所とは名ばかりの収容所であった。短生園自体は、昭和5年に開設していたので施設自体は新しく医療設備は整っていた。

この療養所に入所して、はじめて恵は、自分の置かれている立場を知る。
短生園の所長であった田光所長の癩病に対する予防法は完全隔離。恵たち患者は、外の世界から完全に隔離された。田光所長は、癩患者のいる療養所は、天も地も汚染されているとして人も動物も中に入る事を禁じていたため、恵も短生園には本館の裏玄関にあった通路を
通って入所した。その通路が唯一、恵たち患者の居住区と、外の世界につながっていた道である。恵たち患者の居住区に入る門は、封鎖されていた。

私は盲目であったために、医師や看護婦の姿を見る事は、できませんでしたが、同室であった山田良子さんの話では、医師も看護婦も白衣の装束に帽子、目だけを出した大きなマスクをし、履き物は雨降り用の高下駄だったそうです。私たちの病室には、高下駄のまま入室していました。

山田良子さんは、私にとても良くして下さいました。ある時、良子さんが私に


「めぐみちゃんは、目が見えなくて幸せね。」


と言いましたが、生まれてから今まで、目が見えないことが幸せなんて、思ってもみなかった私には、その言葉は、全く理解できないものでした。

「女にとって、だんだんと醜くなるということは・・・。」

続けて言った良子さんの言葉に納得した私は、とても寂しかったのを覚えています。

短生園にも慣れ親しんできた頃、良子さんが夜中に突然苦しみ出し、目の見えない私は、大きな声で助けを呼び続けることしか出来ませんでした。

「苦しい・痛い・めぐみちゃん・痛い。」

のた打ち回る音と、うめき声が部屋に響きわたり、その声も小さくなって来た頃に、やっと職員の方が来られました。
私が良子さんをどこかに連れて行くのですか、と尋ねると

「先生の所に決まっているだろ、先生は玄関の所におられるから。先生は急患であっても、診療日以外は決しておまえらのいる居住区には、足を踏み入れないんだよ。」

と言って、良子さんを運んで行きました。良子さんとはそれっきりになりました。良子さんはその日の明け方、満足な治療も受けられないままに、この世を去られたそうです。私は良子さんの本名を知りません。短生園では本名を知られると、親・兄弟・親戚に迷惑がかかるからと、ほとんどの人が偽名を使っていました。私も一度だけ良子さんに本名を尋ねたことがありましたが

「私の名前は山田良子。」

元気よく答えられた声が、なぜか、とても悲しい声に聞こえたのを覚えています。
職員の方が私に、

「山田良子の身寄りの者が遺骨の引き取りを拒んだので、ここの納骨堂に埋葬する事になった。」と連絡してこられました。

こうして良子さんは、本名ではなく、偽名のまま埋葬されました。その時、私も同じように短生園で一生を終え、死んで、骨になっても故郷に帰ることはできないと痛感しました。

山田良子さんが亡くなってからは、私の療養所での日々は、淡々と過ぎて行きました。
療養所に入所してから二年が過ぎた昭和9年10月、登さんからの手紙が届きました。
良子さんの後に、同室に入って来られたみっちゃんが、手紙を読んで下さいました。

「療養所での生活はつらいかも知れないけれど、一日も早く病気を治して下さい。僕も、もう一度めぐみちゃんと再開できる日を信じています。めぐみちゃん、めぐみちゃんに知らせるべきかどうか悩んだのですが、やっぱりめぐみちゃんには知らせておきます。」

そこで、みっちゃんの手紙を読む声が止まった。

「みっちゃん、みっちゃん、どうかしたの。なぜ、手紙を読むのをやめたの。」

みっちゃんは震える声で

「めぐみちゃんのご両親が、亡くなりました。」

打たれたような衝撃が走った。

おとうさん、おかあさんが。

みっちゃんは泣きながら、

「めぐみちゃん・めぐみちゃん」と言いましたが、

私は、「みっちゃん。先を読んで。先が知りたいの。」と、

なぜか冷静に答える事ができました。あまりのショックに、状況を把握できなかったのだと思います。


「めぐみちゃんのご両親は、めぐみちゃんが療養所に入所した後、すぐに引越しをされたのですが、先月の室戸台風による土砂崩れによって
生き埋めになり、そのまま帰らぬ人となられました。亡くなられる時まで、おとうさんもおかあさんも、めぐみちゃんの事を心配しておられました。どのような慰めの言葉をめぐみちゃんに、掛けてよいのか僕にはわかりませんが、この知らせに気を落とす事なく、治療に専念して下さい。
最後に、許して貰わなければ、ならない事があります。僕は、結婚しました。相手は仕事の取引先のお嬢さんです。めぐみちゃんと、結婚の約束をしながら守れなかった僕を、ゆるしてください。」

手に落ちる涙で、はじめて恵は、自分が泣いている事を自覚した。

やさしかった私の両親が。
幼い頃より、私に裁縫を教えてくれた母が。
いつも私に、明るい笑い声を聞かせてくれた父が。
亡くなった。

私が病気にならなければ、癩にならなければ、両親が死ぬことはなかった。
登からの手紙には書かれてなかったが、恵は両親の引越しの理由を悟っていた。恵の故郷は小さな街である。癩の子どもを持った両親が、そのまま暮らして行くことを世間は許さなかった。父が母が、後ろ指をさされながら街を去って行く光景が浮かぶ。

涙は止めど無く私の頬をつたった。
私はこれから先、生きて行けるのだろうか。
恵は、自分の運命を怨んだ。
自分の病気を憎んだ。
父や母の代わりに私が死ねばよかった。
自分自身の唯一の拠り所であった希望が、音を立てて崩れていくのを恵は感じた。

自責の念と、両親を亡くしたショックから、恵は二ヶ月近く起き上がることさえできなかった。恵の看病は、同室の光子が受け持ってくれた。光子の必至の看病と励ましのお陰で、藤島恵は半年程で、日常生活を取り戻すことが出来た。


昭和10年 春 (1935年)



なんとか一人で散歩するまでに回復した恵は、板塀越しに、植田幸雄という名の青年に声を掛けられた。

「いつも、海を眺めておられますね。海がお好きなのですか。」

「ええ、塩の香りが、とっても好きなんです。」

「そうですか。私も塩の香りと波を眺めるのが好きで、いつもこの場所から海を眺めています。」

初対面であるのに恵と幸雄の会話は、弾んだ。自責の念から、慰めを求めていた恵と、幸雄の間に愛が芽生えるまでに、時間はかからなかった。
二人は結婚を決意した。結婚といっても、通い婚である。
女性のいる居住区は、男性の居住区と板塀で区切られていた。恋に落ちた若い男女は、男性が夜中に板塀を乗り越えて密会していたため、
田光所長は、男性が断種手術を受ける条件で通い婚を公認していた。
恵は目が見えず、幸雄には片足がなかった。
幸雄が恵の目の変わりになり、恵が幸雄の足の変わりになると二人で誓い合った。
短生園の中では、幾人かの若い男女が結婚(通い婚)をしていたが、すべての男性は断種手術を受けていた。国は癩患者が、子どもを産むことを許さず、断種手術を強制していた。幸雄は結婚のために、断種手術を受けることに抵抗はなかった。どう考えてみても、癩患者である自分と恵の子どもが幸せになれるはずはない。また、自分と同じ様な苦しみを子どもに背負わせるのは、酷としか思えなかった。

幸雄の本名は、藤島浩介。

浩介は鳥取県広田町で、藤島家の五人兄弟の長男として産声を上げた。浩介の家系は、藤島氏の子孫で、事業に成功した浩介の父は、
屋敷を藤島氏の居城のあった広田町に移していた。浩介の父は、山陰地方の覇者であった藤島氏の家系にふさわしい男子に、との思いから、長男の浩介を厳格に育て上げた。浩介も父の期待にこたえ、東京の大学を卒業した後、藤島家の跡継ぎとして父と共に家業に励んだ。
順調に人生を歩んできた浩介であったが、25歳の時に癩を発病する。

両親・兄弟・親戚から

「藤島氏の血を引く本家の長男が、そのような汚れた病気にかかるとは、何事か。お前の日ごろの鍛練がなっていないから、汚れた病に取り付かれたのだ。」

と、ののしられた浩介は、藤島家の跡取りとしての資格を剥奪され、故郷を追われるようにして短生園に入所した。
浩介は藤島家を恨み、滅びを願った。
浩介は実家の家系である藤島氏を滅ぼした宮子氏の名前を使い、宮子幸雄と名乗りたかったが、中国地方の名家である宮子氏名は、たとえ偽名であっても癩患者である浩介には許されなかった。
そこで浩介は、自分の運命を更に呪って、植田幸雄と名乗ることにした。

浩介の祖先である藤島氏は、宮子氏によって、1567年に植田城で滅ぼされていた。
植田幸雄と名乗るたびに

「自分は癩になった時に滅んだ。自分を捨てた家族も藤島家も滅べ。」

との思いが、浩介を支配していた。
そのような浩介であったが、恵への思いが心の傷を癒し、藤島家に対する憎しみを少しづつ、消し去っていった。
浩介は、恵と結婚する決意をしてからは、あえて藤島と名乗るようにしていた。
浩介にとって恵の存在が実家への憎しみ、自分の運命に対する苦しみすべてを忘れさせてくれたからである。

断種手術の後、
昭和10年9月20日、二人は結婚した。
結婚したと言っても、夜中に浩介が塀を乗り越え、恵の所へ行くのを短生園が公認しただけのことである。
室戸台風によって島外保養院が壊滅状態になったために、そこに居た入所者の多くが、短生園に来たため、患者の居住スペースが極端に狭くなり、恵と浩介が二人っきりで過ごせる日は、全くなかった。
それでも恵は、幸せであった。
部屋がせまいために、足を伸ばして寝ることもままならなかったが、手を伸ばせば、そこにはいつも浩介がいた。
両親を亡くしてからは、夜中にうなされる事が多々あったが、浩介と共に寝るようになって、悪夢にうなされる事もなく、眠れるようになった。

幸せな日々が続くと思っていた、昭和11年 春。
恵の体に変化が現れた。
生理が止まり、つわりが始まった。
恵も最初は、自分の体の変化が信じられなかった。
断種手術を受けていた浩介との間に、子どもが出来るはずがない。
恵自身そう思っていた。
思っていたが、恵は妊娠していた。
浩介に、この事実を打ち明けた恵は、

「お腹の中の子どもは誰の子だ。俺は断種手術を受けているのだから、子どもが出来るはずがない。お前は目が見えないのだから、俺と他の男を間違えたに違いない。」

と言った。浩介の言葉が信じられなかった。
恵は、

「目が見えなくても、決してあなたと他の男性を間違えることはない。」と

言い張ったが、嫉妬に狂った浩介の耳に届くことはなかった。
浩介も一度は恵の言葉を信じて、断種手術を執刀した医師に確認したが、医師は断じて手術に失敗はない、と言い切った。
後で判明することであるが、この当時の断種手術は不完全で、恵のような事例は決して珍しいものではなかった。

医師の言葉を信じてしまった浩介は、どうしても恵の言葉を聞く事が、できなかった。
裏切られたとの思いが、浩介を変えていった。
浩介は自らの苦しみの、はけ口として、暴力を振るっていたある日、恵に大怪我を負わせてしまう。
恵は、妊娠し、大怪我を負ったこともあって、本館の病室に移された。

その時から、恵は言葉を失った。
言葉が、口から出なかった。
言葉を口から出すのが、恐かった。

どんなに言葉を並べてみても、恵を信じてくれる者はいなかった。
浩介に信じてもらえず、恵にやさしかった人たちからも、姦淫の女と陰口をたたかれ、のけ者にされた。
あのやさしかった光子でさえ、恵を避けるようになっていた。
短生園は、恵のうわさで持ちきりであった。

堕胎することもできず、恵は苦しみの中、昭和11年11月10日、一人の女の子を出産する。

その日は恵の心を反映するかのように、激しい嵐の日であった。
恵の子供は、産声を上げるとすぐに、看護婦の手で脱脂綿を当てられ窒息死した。
療養所で生まれた癩患者の子供は、すべてこのようにして闇に葬られていった。
民族浄化・無癩県運動を推進していた国は、癩患者の子供が日本で生きて行くことを許さなかった。

私が癩にならなければ、両親は土砂に巻き込まれて死ぬことはなかった。
私が癩でなければ、私の赤ちゃんが殺されることもなかった。
恵を絶望と自責の思いが支配していた。
恵はこの苦しみから逃れたかった。
すべてを忘れ去りたかった。

何とか一人で起き上がると、
海に向かって、歩きはじめた。

一歩。 一歩。


ともすれば、倒れそうになりながらも、恵は必死に安らぎを求めて足を前に出した。

一歩。また一歩。


何とか建物の外に出ることができたが、風が強く出産のために体力を奪われていた恵に、立って歩くことはできなかった。
それでも、はいつくばりながらも海を目指した。

おとうさん、おかあさん、私の赤ちゃん、あなたたちのもとに行きます。


恵を許して下さい。汚れた病に取り付かれた恵を許して。
海にたどり着いた恵はそのまま荒れる海の波に身をまかせた。

ああ、これでやっと苦しみから解放される。これで、やすらかになれる・・・

恵の体は、瞬く間に波にさらわれ、消えていった。






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