慰め


第一章 「マリヤ」

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昭和11年11月10日 (1936年)

瀬戸内海の孤島で、嵐の中、父に望まれずに、一人の女の子が誕生した。

昭和36年11月24日 (1961年)

熊本の小さな病院で両親の愛を受けた、一人の男の子が産声を上げる。


1998年12月20日

快晴であった。
国際空港からパース市内へ向かうバスに揺られながらも、信士の心は空っぽであった。
何かに追い立てられるようにオーストラリアに来た。

だだ、それだけであった。
そう思いたかった・・・。

二十歳の時、単身アメリカへ渡り、職を転々としながらも何とか生きてきた信士であったが、金を求めるあまり、
いつしか犯罪に手を染めることとなる。

半年間の刑期を終え、運命から逃れるようにパースに来た。

マリヤの故郷であるパースに。

マリヤは信士がお気に入りであったカフェのウェイトレスをしていた。
ダンサーになるのを夢見てアメリカに来たと。

信士は、不思議でならなかった。
初対面の時より、何かが、心の奥底にある何かが、マリヤといると顔を出す。

それは、信士にとって、とても心地よいものであった。
刑期を終え、カフェに行ったが、マリヤの姿はなかった。
父親が急病のため故郷のパースに帰ったらしい。



シャトルバスはパース市内に到着した。 ―


あてのない信士は、ふらふらと、足のおも向くまま歩き出した。

気が付くと、目の前に湖があった。
湖までの、道のりを全く思い出す事ができない。
信士には、ぼやけた記憶だけが残されていた。
生きる気力を失っていた信士は、記憶の曖昧さを覚える自分を知った。

「ここは・・・。」

レイク・モンガ湖という看板が見えた。
疲れを覚えていた信士は、岸辺の芝生に腰をおろした。
湖には優雅に首を延ばし、華麗に泳ぐ黒鳥の姿あった。

「・・・・・・・・・・」

言葉にはならない思いが浮かんでは、消えた。

「俺には、なにもない。・・・なにも・・・」

そんな信士の耳に、懐かしさを覚えるメロディが聞こえてきた。

最初は、幻聴かと思ったが、そのメロディは、さらに大きな音で信士の耳を満たしていた。
やさしいメロディが胸の奥深く染み通っていった時、信士は温かく包み込まれる心地よさに一瞬酔った。
そのメロディは、銀髪の髪を後ろで束ねた上品な婦人が歌っていた。
婦人の初々しさの残る口から流れるメロディは、信士にやすらぎを与えた。

信士の目線を感じた婦人は、微笑みながら「観光ですか。」と信士に声をかけた。

信士は突然の質問に戸惑いながらも、

「ええ。」と、一言だけ答えた。

「今は、観光にはとてもいい季節ですよ。クリスマスが近付いていますから、町中が活気に溢れているでしょう。レイク・モンガ湖は、私の散歩コースで、天気のいい日には、必ずパンを持って黒鳥にあげに来ますのよ。」

信士は、婦人の話にとまどっていた。観光や季節。そんなものはどうでもよかった。ただ、あのメロディ。メロディは。

「あの。先ほど口ずさんでおられたメロディーは、何という曲ですか。」

「え、慰めのことですか。」

少し、驚いた様子の婦人は、

「慰めの歌は、私の一番好きな曲なんです。私がまだ少女だった頃に、叔母から教えてもらいましたのよ。今は、すっかりおばあさんになってしまったけど」と、婦人は軽やかな笑い声をあげ、信士も久し振りに心の底から笑っていた。

「慰めの作詞は日本人の方がなさって、作曲は私の尊敬するユニケ叔母様がなさいましたのよ。」

「日本人の方が作詞されたのですか。それで懐かしい気がしたのかも知れませんね。」少女のような笑顔をもつ婦人に対して、素直に答えている自分が信じられなかった。

「日本の方でしたら、当然日本語を理解できますわね。ほほほほ・ほ・わたし、変なことを聞いていますわね。」

「ええ。これでも一応日本人ですから、日本語を読み書きすることは、できます。」

それを聞いた婦人は、とても嬉しそうな顔で、
「昼食は食べましたか。まだなんでしょう。私の家にいらして。一緒に食べましょうよ。」
と言いながら、戸惑う信士の腕をもって歩き出した。信士は、何がなんだかわからないまま、婦人の家に来ていた。

「ここに座って待っていらしてね。」信士に古ぼけたソファーを勧めながら、彼女は台所に去って行った。
ソファーに座って部屋を見渡してみると、至る所に何かのことばが掲げてある。

「何だろう。」

もう一度丁寧に一つづつ読んでみたが、どうも良く分からない。聖書にふれた事のない信士にとって、分かるはずもないが、

「神は、愛なり。」

との、ことばから目を離す事が出来なかった。聖書に全く興味のない信士にとってこれは驚くべき事であった。部屋中、聖書のことばを掲げて何の特があるのだろう。
しょせん、神なんてこの世には、いない。
そんなものを信じるのは時間の無駄だ。

信士も幼い時は、神に助けを求めた事が何度かある。信士にとって、あじさい園での生活は、決して幸せとは言えなかった。
あじさい園のほとんどの子供たちには、面会人がいた。また、お正月やお盆になると、親や親戚の家で過ごす、子らもいた。面会人が全くない、天涯孤独の子供は、信士を含めて二人だけであった。親にもらったおもちゃを大事にしている仲間を見ると、信士は妬みと憎しみから、その子供達と、ケンカをした。信士は、いつもあじさい園で孤立していた。


「俺には、なぜ、家族がいない。なぜ。・・・ 神様、俺にも家族を下さい。」

そう心の中で叫び続けた。しかし、信士の叫びは神には届かなかった。信士は、小学校の高学年になる頃には、神はこの世にいない。
神に頼る事は弱い人間がすることだ。俺は一人で、生きて行く。回りの人間はすべて敵だ。との信念が、できあがっていた。
そのような信士にとって、この部屋の飾り付けは、全く理解できないものであった。

「食事の支度ができましたよ。さあ、こちらにいらして。あらあら、わたしったら、名前を聞いていなかったわね。あわてんぼうでしょう。よく友人からも言われるのよ。あなたのそそっかしさは、天然記念物ねって。紹介が遅れたけど、私の名前はルツ。ルツ・ドーソンです。よろしく。おばあさんだけど、気軽にルツって呼んでね。」

「私は、信士・石田と言います。」

「シンジ・イシダ。シンジって呼んでもかまわない。」

「はい。」

「だったら決まりね。これからは、あなたは私をルツ、私はあなたをシンジと呼ぶわ。さあ、冷めないうちにお食事にしましょう。シンジ。シンジが食事のお祈りをして下さいね。」

食事の祈り・・・。

「すいません。私にはお祈りする事ができません。私は、今まで神を否定して生きてきましたから。」
シンジの言った言葉に、たちまちルツの顔が曇ってしまった。
「神様を信じていないの。いいわ、だったら私がお祈りするから、目をとじてお祈りにあわせてね。」目を閉じる事もできません。と言い出すまもなく、ルツは祈り出した。

「お父様、感謝します。イエス様が私の罪のために死なれました。イエス様を信じるだけで、地獄から救われました。感謝します。また、今日、シンジと知り合う事ができました。感謝します。主イエス様がこのように昼食を与えて下さり感謝します。このお祈りを主イエス・キリスト様の御名によって感謝してお祈りいたします。アーメン」

祈り終えるとルツは、清々しい顔で、料理の説明をはじめた。

「今日の昼食は私の自慢のポテトスープよ。そして、これは自家製のアップルパイなの。お替りは十分にあるから、遠慮しないでね。」
とまどうシンジを気にする風もなく、一方的にルツはシンジに話し掛けた。

「いただきます。」シンジにはそれしか言えなかった。

食事の前にお祈りする人間がいたんだ。なぜ、このようにやさしくしてくれるのだろう。色んな考えが浮かんだが、それより、目の前の食事に専念する事にした。

「おいしい。おいしいかしら。お口にあう。お替りする。」食事の間中、ルツは信士に話し掛けた。

信士は「はあ。はあ。はい。」との答えを繰り返しながらも夢中でポテトスープを口に運んでいた。
アップルパイの香ばしさは、口の中から零れ落ちそうで、舌に残る味は絶品であった。今まで、金にまかせた高級料理を食べ尽くして養った信士の舌には、決しておいしいものではなかったが、そこに理屈はなかった。おいしい。それで十分であった。

「もう一杯お替りどう、シンジ」

「もう十分です。もう食べれません。ごちそうさまでした。」 その返事をまっていましたとばかりにルツは、信士に語り出した。

「シンジは私が歌っていたあの『慰め』について尋ねていたわね。
シンジは『慰め』をどこかで聞いた事があるの。」

「・・・」

信士はどう答えていいか悩んだ。自分自身なぜ、ルツの歌っていた曲に懐かしさを覚えたのか、理解できなかったし、『慰め』のメロディーは今も信士の頭のどこかで鳴り響いていた。自分自身、理解できないものをルツに答える事はできなかった。

ルツは信士の答えを待つことなく、席を立つと古びた日記を差し出した。

「シンジはこの日記を読む事ができる。」

その古びた日記は日本語で書かれていた。
表紙には、藤島恵(ふじしま・めぐみ)と、何とか読み取れる程、墨が薄くなっていたが、しっかりとした達筆で書かれていた。

「私はどうしても、この日記を読みたいの。でも日本語で書かれているでしょう。日本語を読める方に訳してもらいたいと思って、ずっとイエス様にお祈りしていたら、シンジに出会ったの。神様が導いて下さったのね。とても嬉しいわ。ぜひ、この日記を訳して欲しいの。お願いします。」

「いいですよ。どうせ、ひまをもてあましていますから。」信士は自分が言った言葉に驚いた。なぜ、このような事を言ってしまったのだろう。

「ありがとう。シンジ。とっても嬉しいわ。私はこの日記を屋根裏部屋で見つけたの。叔母はこの日記を大切にしていて、いつも私に、日記を読みたい。早く読みたい。と言っていたわ。なぜ、そんなに日記を読みたいの。と、尋ねると。
この日記は、『慰め』の詩を書いた人の生涯が綴られているから。
叔母の死後日記を探したけれど、どうしても見つからなかった。それが先週になって、叔母のトランクの中からひょっこり出てきたの。


驚いたわ!

何十年も経っていたけど、私がずっと探していた日記だって。
翻訳して下さる方をお与え下さい。と、お祈りしていたら。シンジと出会って、きっと神様のお導きね。」

数秒間の沈黙後、再びルツは、思いがけない事を言い出した。

「ところでシンジは、ホテルに泊まっているの。」

「いえ、まだ泊まるホテルは決めていないのですが。」

「シンジさえよろしければ、この家に泊まって。一人暮らしだから、部屋は空いているわ。」

この人は人を疑わないのだろうか。はじめて会った人間が、恐くないなんて。

ルツが『慰め』の作詞者の日記と言った時から、信士の答えは、決まっていた。

「ぜひ、泊めて下さい。よろしくお願いします。」

ルツは笑顔を浮かべながら信士を抱きしめて。

「こちらこそ、よろしくね。シンジ。」






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