Springさん 22週 誘発分娩(ラミナリア+促進剤) 03/04/15 |
34歳です。准看護師の免許を持っていて30歳から正看護師の学校に行きました。
2002年看護実習中だったのですが、35歳までに第1子が欲しいと思い、計画的に妊娠しました。
7月に妊娠していることがわかり2度目のエコーで、一絨毛膜一羊膜の一卵性双胎と判明しました。一度のお産で2人のお母さんになれる喜びでいっぱいでした。一絨毛膜一羊毛膜は子宮の中の赤ちゃんの間に膜がない、二人でひとつの部屋を使う一卵性の双子です。一人が多血、一人が虚血になり、紙の赤ちゃんとか消える赤ちゃんと言われる、育っているうちに一人になってしまうこともある、リスクの高い妊娠でした。
そして、実習では患者さんを抱えたり、身体を拭くのにお湯の入ったバケツを抱えたりするので、流産の心配もしていました。でも、22週でお腹の中で死んでしまい、死んだ赤ちゃんを分娩しました。
ラミナリアが尿道を圧迫しておしっこが出なくなり、薬の副作用で39℃を超える高熱、その後に下痢。そして、やっと陣痛が始まり出産しました。朝6時ごろ10分感覚になっても子宮口は開かず、3分感覚になっても破水せず、まだ大丈夫かなと痛みが遠のいた時に横に置いていたポータブルトイレで排尿してベッドに戻ろうとベッド上に四つん這いになったその瞬間、「ぎゃ!」と声にならない声が出る激痛。そして、赤ちゃんは滑り出てきて挟まっている。看護婦さんが様子を見に来て話し掛ける声。「もう自分で出てきて挟まってるのよぉーーー」という私の絶叫に、看護婦さんは、すかさずまたにバスタオルを押し当て「出てこないように押さえとくから、ゆっくり分娩台にスライドして」分娩台に上がり、足置きに足を乗せ、産褥ショーツのマジックテープをはずすと挟まっていた赤ちゃんがズルっと出てきました。
死産の後、私は学校の卒業論文と、国家試験を控えていました。赤ちゃんを失ってすぐの時は、「死産を言い訳にして、論文がかけないとか、不合格とか、するもんか!!」と意気込み、一生懸命でした。泣くのも忘れて「大丈夫?」と聞かれると、大丈夫じゃないけど、大丈夫としか答えようがなく、「死んだ子は戻ってこないから」と言っていました。赤ちゃんが死んで3ヶ月が過ぎ、国家試験が迫ってきた頃に、国家試験に対する不安とあわせて、忘れていた悲しみがやってきました。「命二つと引き換えに、看護師免許を手に入れるんだ」という鬱状態に陥り、家の外に出ると涙が出てどうしようもありませんでした。友達と話そうとしても、涙が出そうで話せません。泣いて受験前の友達に迷惑をかけるのも嫌です。どうしようもない鬱状態でした。
そんなときに、ネットで自分のことを書いてみたら、いろんな人から「辛かったでしょう」と返事を頂いて、「そう、私辛かったんだけど、辛いって言えなかった」とはっきり解ってからは、つらい時は無理して友達といないで「ごめん、帰る」と言って帰宅して気がすむまで泣いていました。休める状態であるのなら、休んだほうがいいと思います。私はそれをしないで、シャカリキに頑張ったので鬱のようになってしまっていました。だって悲しいんだもん。だから、悲しんでいいと思う。甘えてもいいと思う。
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ひなた&はづきのママさん 22週3日 誘発分娩 03/03/21
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8週で流産をしたその年の11月、女の勘なのかなんとなく妊娠検査薬を使ってみた。
やっぱりできていた(はづき)。まえの事もあるのでとりあえず病院には行き、家の人たちにもクリスマスまで黙っていました。1月に母子手帳をもらい、さぁ今度こそ!っと思っているうちに出血。先生は疲労からだから少し仕事を休んでとの事。幸い出血も治まり、2回目の検診(3/4)では順調でしょうと言われ、また安心して帰って来ましたが、3/8の夕飯前、なーんか生理みたいにおりたものがと思いトイレへ。出血でした。急いで病院へ。内診したら赤ちゃんは元気なんだけど胎盤が位置が悪いため出血してるって。とりあえず絶対安静なので入院することになりました。
1ヶ月間、入院し先生が気分転換に一度退院したらと言われたので、退院し実家で過ごすことに。
長女の入園式はドクターストップで出ることは不可能に・・・(いつ大量出血するか分からない状態)
実家で過ごして2週間。ときどき出血はあったけどどうにか薬で抑えられた。
が、4/17の夜 水みたいなものがでた。なんなのか?これってもしかして破水なの?長女のときは破水させられたので、よくわからないのです。慌てて病院へ。やっぱり破水してしましました。先生から説明を受け、「22週では肺が出来ていないなら、今、出しても生存率は0に近いよ」エコーを見ながらそう言われました。まだおなかの中で生きている。心臓だって動いているし遊んでるよ。胎動感じるんだよ。なのにだしたら生きられないってどういう事?でも時間がたつにつれて、少しずつ理解し、病院に主人の両親と私の両親・実の妹が来てくれた。つらいかもしれないけれど今回は・・・また頑張ろう!みんな励ましてんだか慰めてんだかわかんないけどそういうことを話していた。
次の日、主人と妹が付き添ってくれ9時から2時間おきに陣痛を起こす坐薬をいれ始めた。2回目を入れてすぐ(11時45分頃)陣痛が激しくなり分娩室へ。なかなか出てこない。逆子だったので時間がかかった。「12時14分です。」と看護婦さん。赤ちゃんは泣かない。涙が出ていた。応援してくれた看護婦さんもみんな泣いていた。後で聞いた話なんだけど、主人も泣いてたんだって。あたしの前では泣かなかったのに。
主人と妹が説明を受ける。解剖はしないことにした。それと先生は赤ちゃんを私に合わせないほうがいいっと言ったみたいだけど、妹が逢わせて上げてくださいと・・・私が絶対に逢うって言ってたから。赤ちゃんに対面。色白のかわいい赤ちゃん。ただ寝ているみたいに穏やかな顔。そのとき分娩室にはおさかな天国が流れていた。私は歌ってあげた。その晩は主人も病院に泊まってくれました。「もうひとつ屋根の下にいる事出来ないからせめて同じ建物のなかで一晩過ごしたい」主人の思いです。病室ではづきのお棺いれるために折り紙で動物やピアノを作った。
次の日、火葬です。最後のお別れ。折紙とキティちゃんの名札。名札にはちゃんと名前を書いて。お名前がないとお友達困るからね〜なんていいながら。看護婦さんがまた泣いていた。本来看護婦さんは泣いちゃいけないらしいのですが、看護婦さんに「お母さんってやっぱり強いんだってことあなたからまた教わったような気がする」って。そして、はづきとさよならしました。火葬には出席できなかったけど、その日の夕方退院しました。続けて流産・死産だから体にものすごく負担かけたから、今は次へ向けて体調整えているところかなっ
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