えーでは市川崑の金田一耕助シリーズ。続きです。
さて前作の『犬神家の一族』が煮えたぎる天ぷら鍋に水でもぶっかけたような大ヒットになり、これを商売汁たっぷりの東宝が見過ごすはずもなく直ちに第二弾が制作されました。第一弾『犬神家の一族』の公開が76年の秋、第二弾の公開が翌77年の春ですから異様な短インターバルでの続編制作ということになります。二匹目のどじょうは熱いうちに打て。なんかことわざが混じったな。それはともかく前作とほぼ同じスタッフ、キャストでの第二弾。原作は横溝正史の作品中でも代表作の一つに数えられる『悪魔の手毬唄』であります。
岡山県の山奥にある小さな村、鬼首村というゴスな名前の村で起こる奇怪な殺人事件。被害者はその土地に伝わる手毬唄になぞらえて死体を好き放題にいじくられていたのであった。という陰湿指数マックスの怪事件を軸に、山村の旧家をめぐる一触即発のどす黒い人間関係が巻き起こす悲劇が描かれます。相変わらずの飛び散る血しぶきにほとばしる血ゲロ、おまけに囲炉裏に顔面を突っ込んでこんがり黒焼きの死体など残酷度はアッパレであります。
にもかかわらず、映画は前作以上の情感をたたえた名作になりました。冬枯れの山村の荒涼とした風景、その底冷えする寒々とした空気の中に、マントを羽織った金田一がはぐれたカラスのようにたたずみます。その姿は一介の探偵風情ではなく、流転する人間の運命を神や悪魔に近い視点からそっと見守る天使(もしくは使い魔)のようです。金田一の本質は探偵ではなく、狂言まわしであり、語り部であり、しばしば傍観者である。という市川崑の解釈がこの画面からも汲み取れます。まあそういう深読みは置いとくとしても、この風景は日本人のDNAに刻み込まれたある種の感情に訴えかえるものがおおアリ。郷愁というと陳腐だし、旅情というと俗すぎる。ノスタルジーとも違うし…私の貧弱な語彙ではこの情景にピッタリの言葉が思い浮かびませんが、それでも「侘び」という言葉が一番近いかも知れません。
そしてもう一つ、忘れてはいけないのが助演陣による心にしみる演技。過去の因縁に縛られ続ける湯屋の女主人・リカ(岸恵子)と、彼女に思いをよせる磯川警部(若山富三郎)が素晴らしい。特に、中年の報われない恋の、その報われなさっぷり、いじらしさを背中で演じる若山富三郎がこの映画の真の主役といってもよい存在感。ときおり見せる中学生男子のような純情さに観ている方もガンバレ!と拳を握ります。その磯川=若山の思いにほだされながらも、過去の因縁に囚われて流されてゆく岸恵子の哀れさもまた良かった。単なるパリのオバサマではないのよ、と自信たっぷりの声が聞こえる堂々の女優っぷり。
その2大名優の周りをにぎやかすのは例によってレギュラー陣の皆様。加藤武の立花警部、大滝秀治の村医者、草笛光子の旧家の奥様、三木のり平の店主(とその妻の沼田カズ子)あたりはほぼ前作のキャラクターを引き継いで登場。特筆しておきたいのは今回初登場で以後シリーズの常連となる白石加代子。爆裂に幸の薄い未亡人をリアル自縛霊のような禍々しさで演じており凄まじいインパクト。うっかり逆恨みでもされようものなら取り憑かれて末代まで祟られそうな迫力であります。
その他、村の純朴でバカ正直、というか正直バカな巡査を演じた岡本信人、アル中の杜氏を「まんが日本昔ばなし」と全く同じテイストで演じた常田富士夫も要注目であります。
ラスト、総社駅にて、列車で去りゆく金田一にリカへの愛情を指摘された磯川警部。金田一の言葉が列車の音にかき消されてきこえなかったのか、それとも聞こえないふりをしたのか「え、なんだって、金田一さん…」と問い返しますが、すぐそばには駅名の看板が平仮名で「そうじゃ」。つまり金田一の指摘を「そうじゃ」と暗に肯定しているのである…。という評をどこかで読んだ記憶があります。なるほど面白い指摘です。そう思ってそのシーンを見返すとやはりそのように思えます。が、この指摘に対して当の市川崑は
「いや、偶然」
と言い切ったとかで大脱力。しかしこの偶然には何か映画の神が味方したかのような幸運を感じます。それにそうでなくともこの余韻豊かなラストシーンは素晴らしい。ついでに言うと音楽もナイス。冬の寒い午後あたりにコタツで丸くなりながら浸っていただきたい傑作であります。
というわけで次回は日本のミステリー史に燦然と輝く大傑作の映画化『獄門島』です。
(2004年01月15日)