その観るもの全ての随意筋を弛緩させるグルーヴィーな内容で、好事家に
「水野晴郎ここにあり!」
と力いっぱいアピールすることに成功してしまったケッ作『シベリア超特急』ですが、それを語る際に決して外してはならない作品、それが『落陽』であります。これはにっかつの80周年記念作として、総製作費50億という穏やかでないスケールで製作された掛け値ナシの大作なのですが、何とその中の2つのシーンに晴郎が出演しておられるのです。たった2つのシーン、しかもカメオ出演ではありますが、役どころがシベ超と同じ山下奉文大将といいますから晴郎マニアとしては見逃せないモノがあります。しかもこの映画、ひそかにシベ超に影響を与えたのではと思われる点が随所に見受けられ、なぜ晴郎の初監督作品が『シベリア超特急』でなくてはならなかったのか、という命題にも大いに示唆するところ大の、シベ超ファン必見の作品となっております。
それはそれとして、しかし50億です。シベ超なら優に60本ぐらいは撮れてしまう。公開当時、邦画離れしたその規模の大きさに私の期待も律儀にふくらんだものですが、観た人に感想を聞くと何故か暗い顔で黙り込んでしまう所に何やらタダならぬものを感じ、結局は見逃してしまいました(のちにビデオで観ましたが)。そう言えば予告編からも、金にモノを言わせた豪華さの陰から独特のこうばしい香りがにじみ出ていたような気が…。まあ主演の加藤雅也やダイアン・レイン、ユン・ピョウはいいでしょう。しかし脇を固める面々からはなにかこう名状し難い独特のスメルが立ちのぼっております。宍戸錠、中村梅之介、尾藤イサオ、にしきのあきら。…うーん、濃い。さらにカメオ出演している連中に至っては、立川談志、内藤陳、団鬼六、キラーカーン、黒田アーサー、そして水野晴郎という何か独特の偏りがあるファンキーな濃さ。とどめにフィルモグラフィの無節操さでは定評があるドナルド・サザーランドという、キャスティングに何やら深遠な宇宙意思すら感じさせる独特の世界観が形成されております。
そして音楽が「アラビアのロレンス」などで有名な巨匠モーリス・ジャール、さらに主題歌が名ボーカリストのエラ・フィッツジェラルドと、目を閉じれば乱れ飛ぶジャパンマネーが脳裏に浮かぶバブリーな豪華さ。そしてこれらの濃ゆすぎる個性をまとめ上げる監督は伴野朗…。にっかつの80周年記念作にしてはやけに聞き覚えのない名前ですが、それもそのはず、この伴野朗という人物は実は『落陽』の原作者その人、つまり職業的には作家であり、映画監督の経験は全くナシというナチュラルな素人。自社の80周年の記念作、しかも製作費50億というまさに命掛けのプロジェクトにズブの素人を据えるというにっかつのチャレンジ精神にはヅラの毛も抜ける思いです。まあこの辺には実は興味深い裏話があるのですが、それはまたあとで。
映画の舞台は第二次大戦前後の中国。物語はこの地での覇権をめぐる日本軍の進退がメインですが、映画のなかでも日本軍は塩の買い占めや現金の略奪、麻薬の密売などといういなせな行為をビスバス繰り返しております。主人公の加藤雅也は一応ヒーロー然としたカッコイイ役柄なのですが、手口はヤクザ並みの日本軍に全面的に加坦している上に、本人の大変スクエアな台詞の読み方も相まって全く感情移入の不可能なキャラに仕上がっております。この謎の主人公があっちでバタバタ、こっちでバタバタ、息抜きにダイアン・レインとイチャイチャ、いい具合に腰が軽くなったところでまたバタバタ、そうこうしているうちに日中戦争が勃発しあっけなく終戦、そして雅也はダイアンを残し一人砂漠を放浪して完。下手をすれば感想が
「色々あった」
の一言で終わってしまうという歴史の闇鍋のような物語でした。劇中やたらと万里の長城の空撮とか羊の巨大な群れのシーンがサブリミナルのようにインサートされ、一応雰囲気だけは大作を観たような気分になりますが、実際の満足感はこの映画の長さに見事に反比例しているあたりが大変スバラです。
さて、その珍妙な爆似ぶりを買われてキャスティングされた晴郎は当然山下奉文大将(この映画では少将)の役ですが、この時はゲスト出演ということで、比較的リラックスしたというか、力の抜けたというか、まあ力の抜ける演技を披露されております。全編を通して晴郎の出演シーンは2箇所あり、ゲスト出演としてはなかなかの扱いですが、この二つのシーンをばっさりカットしても物語の進行には全く影響しないあたりがゲストの悲しさ。とは言え晴郎はここでもその独特過ぎる存在感を存分に発揮しておりナイスです。相変わらずのムッチリした軍服姿に独特のイントネーション。ある意味映画本編よりもスリリングな台詞回し。そうしたフィーチャーが渾然となって、作品中でも屈指のヤバいオーラを発するシーンとなっております。注目すべきは晴郎の弟子、ぼんちゃんこと西田和晃の存在で、シベ超では比較的堅実な演技を見せていた彼もここでは晴郎に劣るとも勝らないビザールな演技を見せてくれます。いやこれは凄い。なにせ
「閣下にッ…フィリピン…ミンダナオ島へッ…
転任のッ…内命がッ…下りましたあッ!」
…という寿命の尽きかけた蛍光灯のような喋りな上に、油の切れたロボットのような動きでカクカク礼を連発するもんですから、この演技にOKを出した監督のおおらかなセンスには全く感動せざるを得ません。このシーンには脇にもう一人、山下大将の妻がいるのですが、この人の演技のマトモさには思わず日本アカデミー賞を授与したくなる衝動にかられます。いやまったく、晴郎&ぼんちゃんの凸凹コンビ(否、体型参考で凸凸コンビか)が生み出す結界の凄まじさ。この結界の中ではどんなまずい演技も黄金のようにキラキラ輝くという、まさに演技の錬金術です。
とまあこのように結果はどうであれ、『落陽』は晴郎にとって数少ない俳優経験のひとつとなりました。もともと私生活でもつけヒゲを愛用していたり、警官の格好をしてみたり、ブルース・リーの特番で『死亡遊戯』の黄色いツナギのジャージを着てみたりと相当なナルシズムを抱えていた人だけに、この俳優体験は彼にとって忘れ難い自己陶酔の悦びをもたらした事と思われます。しかも山下大将という自分にピッタリなオイシイ役をあてがわれ、そのうえ大好きな軍服まで着られてエラそうにできるというパラダイス。もはや晴郎の御満悦メーターは臨界突破です(まあここでメーターが振り切れたために以後冷静な判断力を失ってしまったとも言えますが)。
こうして『落陽』の出演をきっかけに俳優としての快感に目覚めてしまった晴郎が、その快感を自らの手で純粋培養/拡大再生産させたのがつまり『シベリア超特急』であったと言えるでしょう。そういう意味では晴郎に山下大将という唯一無二の役を与えた『落陽』という映画がシベ超を産んだと言っても過言ではありますまい。そしてまた晴郎がシベ超の次回作でも依然として山下大将にこだわっている、という恐るべき事実もまさに当然の事と言えます。
このような歴史的意義(わはははは)をこの『落陽』という映画は持っているのですが、しかしそれにしてもこのツマラなさはヒドいです。結局この映画は製作費の50億をペイできず、にっかつをまさに文字どおり落陽させたというシャレのようなシャレにならないオチがつきます。まあ監督が素人だったからなあ、というエクスキューズもできましょうが、しかしこれにはちょっと面白い話があるのです。
公開当時の「キネマ旬報」に掲載されていた、モーリス・ジャールへのインタビュー。ひととおりインタビュアーが映画の内容について聞いたあと、何気なく「監督のロウ・トモノについて…」という質問をしたのです。しかしモーリス・ジャールは怪訝そうな語調で
「ロウ・トモノ?そんな監督は知らないな。たしかこの映画の監督は◯◯◯◯という人物のはずだ」
…この熱過ぎる発言が宙に浮いたまま、ここでインタビューは唐突に終わります。◯◯◯◯の中の名前が何だったのかはちょっと失念してしまいしたが、誰の名前であれメガトン級に気まずい発言と言えましょう。伴野朗の名を監督に据えたのは、単なる話題性のためか、それとも本作のあまりの出来の悪さをフォローするための免罪符か…。いずれにしても心底寒い話であります。
(1998年)