実はこの映画、ボンクラでもバカでも貧乏でも何でもない。当然金はかかってるし、質もかなり高い。数ある007シリーズの中でも上位に食い込む出来だと思う(007シリーズ自体がそもそもバカの殿堂である、という点はとりあえず忘れることにする。頼むから忘れてくれ)。しかし、世間がこの映画に与えた評価は全くもって「駄作」だった。理由はただ一つ、ジョージ・レーゼンビーのボンドに難アリ。迫力不足。
そりゃ無理もない。ショーン・コネリーのワイセツで残忍そうな顔だちにタメを張る顔なんてある訳がないではないか。ボンドのイメージとコネリーのイメージを殆ど同一視していた当時の観客がガックリきたのも理解できる。しかも悪いことにレーゼンビーがこれ一作でボンド役を降りてしまい、レーゼンビーはミスキャスト、という拭い難い先入観ができてしまった。これも『女王陛下』が駄作扱いされる大きな原因のひとつになっている筈だ。
実際には、レーゼンビーはこの後もボンドを演じ続ける契約をプロデューサーと交していたのだが、一時の気の迷いから自ら契約の破棄を申し出たのだという。結局制作サイドの説得にもかかわらず彼はボンド役を降りてしまった。プロデューサーとしては以後もレーゼンビーをプッシュする予定だったというから、レーゼンビーがミスキャスト、という見解は少なくとも制作サイドにはまるで無かった訳だ。
事実、「ショーン・コネリーとの比較」を念頭に置いて観なければ、レーゼンビーのボンドは結構サマになっている。モデル出身らしく、長身のシルエットが非常に絵になる。アクションも悪くない。マスクにはまだ貫祿が足りないが、それはこれからキャリアを積んでゆくことで十分補えたはず…だが、しかし彼はそうはしなかった。「ボンドの時代はもう終わりさ」という知人のいいかげんなアドバイスを真に受けちゃったからだそうだ。まさに人生のブービートラップ。レーゼンビーのキャリアは、事実上ここで終った。そしてその選択をあざ笑うかのように、ジェームズ・ボンドが以後30年近くに渡って映画界を生き抜いてきたのは周知の通りである。
その後、彼は当たり役に恵まれず、『ナポレオン・ソロ』でイギリスの情報部員をやったり、イアン・フレミングの生涯を追ったTV番組でホストをやったり、はたまた香港映画『スカイ・ハイ』『電撃ストーナー』に出てみたり(かのブルース・リーが生前に制作していた、オリジナル版『死亡遊戯』に出演する話もあったそうだ)、若き日のズッカー兄弟のバカ映画『ケンタッキー・フライド・ムービー』にゲスト出演したりと、苦労が絶えない。フィルモグラフィを見る目が思わず涙でかすむ。くう〜っ。
『女王陛下』はシリーズ中でもかなりの異色作とされている。それはボンドがあろうことか真剣に恋をしてしまい、ラストでは本気で結婚すらしてしまうという掟破りの展開をみせるからだが、さらに結婚式の直後に新婦が射殺されて完という死ぬほど救いのない結末が来て、以後の能天気全開のシリーズからはおよそ想像がつかないであろう悲話となっていた。
花嫁の亡骸を抱いて悲しみに暮れるボンドは、おそらくレーゼンビー一世一代のベスト・アクト。「世界は二人のものなんだ」と半ベソでつぶやくボンドを、これほどの痛みをもって演じられる歴代のボンド役者はおそらくいまい(いるとすれば実生活で実際に妻を失った経験のあるピアース・ブロスナンぐらいか?)。このシーンでの彼の演技は、他に映画出演が殆ど無いとは思えないほどだった。不覚だったが自分はこのシーンで目に涙をためてしまった。まさか007観て涙目になってしまうとは…。レーゼンビーのボンドには、コネリーのボンドには無い人間的な脆さというものがある。『女王陛下』が、心ある007ファンにとって特別な存在であるはこのためだ。
映画自体の出来も良い。特にアクションシーンのテンポの良さは特筆ものだし(まあなんとなくヘボい所もあるにはあるんだが)、見せ場も豊富だ。このあとショーン・コネリーがえげつない額のギャラで復活した『ダイアモンドは永遠に』よりも断然面白い。ジョン・バリーのテーマ曲も力入っててカッコ良さ炸裂。なによりルイ・アームストロングが例のダミ声で歌う主題歌が最高だ。
が、そうした水準の高さ、作品の奥深さが評価されることは無く、「ボンドがショーン・コネリーでない」「ジョージ・レーゼンビーがこれ一作で降りた」という点のみによって、この映画は見事駄作の烙印を押されてしまう。考えてみればショーン・コネリーは罪作りな役者だったと思う。以後、コネリーのボンドに比べてどうなのか、というのが歴代のボンド役者の魅力を計る指標になってしまったし、その後ボンドを演じた役者たちは、何らかのかたちでコネリーのボンドのイメージと対決することを迫られたはずだ。
今やジョージ・レーゼンビーは、史上稀に見る不遇の役者として半ば伝説になろうとしている。が、最近になって『女王陛下』再評価の動きが全世界的に盛り上がってきたことで、ようやく彼も汚名をそそぐことができそうである。
(1997年)