チャンネルNECOでやってたのをついつい録画して観てしまった『人間の証明』。いやあ出演者の名前をつらつら書くだけでも失禁しそうです。岡田茉莉子、松田優作、ジョージ・ケネディ、ジョー山中、三船敏郎、岩城滉一、鶴田浩二、ハナ肇、地井武男、峰岸徹、夏八木勲、長門裕之、范文雀、ジャネット八田、坂口良子、伴淳三郎、竹下景子、北林谷栄、大滝秀治、佐藤蛾次郎、室田日出男。なんというか牛肉五割増しのスキヤキにラードと味の素をぶちこんだような濃さ。すでに日本映画が斜陽産業とよばれて久しいころの映画ですがその気になればこのくらいの油っこい人材はサクッと集まるのでした。この濃さと豪華さは今の邦画では再現不可能でしょう。
東京で起きたアメリカ人の刺殺事件。被害者は死の真際に「ストーハ」という謎の言葉と西条八十の詩集を残していた。「ストーハ」とはなんなのか?…ということで始まる警察の地道な捜査。事件を追ううちに真相は戦後の混乱期までさかのぼり、はては東京・ニューヨークを又にかけた壮大な因縁の物語が明らかになるのであった…と書くと燃えるサスペンス・ミステリー映画のように思えますが、そこはそれ、監督が『北京原人 Who Are You?』で日本全土に強烈な筋弛緩剤を投下した佐藤純彌ですので油断は禁物です。本作でも「巨額の制作費がかかった大作を平凡に撮る」という彼独自のアビリティが遺憾なく発揮された結果、イチローが1ストライク2ボールからのキャッチャーフライでアウト、というような大物の凡退感あふれる仕上がりとなっていました。
ミステリーといっても犯人は中盤も過ぎないうちからお見通しですし、サスペンスの要である人間関係も「その昔松田優作の父を見殺しにしたのがたまたま容疑者の岡田茉莉子だった」「その昔松田優作の父を殺したのがたまたまNY市警で相棒になったジョージ・ケネディだった」という便所で拾った年賀はがきで一等が当たる並みの薄い偶然が連発されて否応無しに出来過ぎ感が盛り上がります。まあ、被害者の遺留品と「ストーハ」を糸口に真相があばかれていく過程はなかなか面白いんですが、解くべき謎がほぼなくなった時点でまだ上映時間が一時間近く残っているのには思わず体内時計も狂います。
まあ後半は如何にして証拠固めをするかという地味なミッションが待っているわけですが、その甲斐あってついに追い詰められる犯人。場所はとある授賞式の会場。そこで賞を受賞した犯人が、受賞スピーチの壇上にて「私が殺しました」と唐突に爆弾発言。会場全体をいたたまれない地獄にたたき落とします。会場全体を包むドン引きの空気をよそに、ポエマー魂をスパークさせてとくとくと己の不徳を語る犯人。しまいにはこのさっぱり要領を得ない語りになぜか会場が感動の渦につつまれてしまい沸き起こる万雷の拍手。ええっ?!とビックリしたのは我々観客だけではないらしく、その場で張っていた刑事達もあまりにビックリしたのか棒立ちのまま硬直。犯人逃走。いやあクライマックスに至ってのこの警察のシャープなポカっぷりには正直プリティなものすら感じますが、おかげで映画はまだまだ続きます。
まあこんな調子で脱力の場面はあるものの、ラストシーンを覆う苦みが忘れがたい映画ではありました。最近の映画にはめっきり観られなくなったこの苦み。救いの無さ。高校生の頃に見たときは、映画全体を貫くご都合主義っぷりと犯人のポエマーっぷりに「なんて甘甘な映画なんだ!」と頭から湯気を発した記憶もありますが、そうした映画的なお約束、劇としての装飾を取り除けば、入り乱れる人間模様が実はビターな味わいの印象深い悲劇と言えます。それを踏まえてもう一回オープニングを見直すと、軽快なタッチの分だけ後の悲劇が際立って結構せつないものが。まあ骨格はともかく、肉付けがコテコテの大甘だったのがキャッチャーフライの原因と言えましょう。無念です。
ちなみにオープニングといえば、『犬神家の一族』といい『白昼の死角』といい、このころの角川映画ってタイトルロゴの出し方がやたらカッコよかったりするんですが、この映画でも一番印象に残るのは、いずれ殺される男の笑顔がクローズアップされて題字がかぶるタイトル画面だったりします。この角川映画独特のテイストに物凄く時代の匂いを感じるのはわたくしだけでしょうかね。
(2003年12月04日)