ANY OLD TIME IN AMERICA


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昭和洋楽アンソロジー

♯09 〜 昭和の黒人音楽ブーム 〜

Blues&Soul
 一般的に昭和洋楽シーンの黒人音楽立役者といえば、“サッチモ”の愛称で広く知られたルイ・アームストロングだろう。ジャズ・ヴォーカリストだったサッチモは、ひょうきんな笑顔と、独特のダミ声が看板。度々の来日公演であっという間に全国区の人気者となった。戦後間もない昭和22年「モナ・リザ」、24年「プリテンド」、34年「キサス・キサス・キサス」を大ヒットさせたナット・キング・コールも、わが国の黒人音楽史の中では重要な人物。昭和30年、女性黒人歌手のアーサー・キッドが放ったヒット作「ショージョージ」も忘れられない。32年に大ヒットしたハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」も、黒人ヴォーカリストの魅力を充分に伝えてくれた。34年には、黒人コーラス・グループのプラターズが「煙が眼にしみる」を大ヒットさせた。こうした点から戦後間もない昭和時代に黒人音楽流行の先鞭を切ったのが、サッチモ、ナット・キング・コール、アーサー・キッド、ハリー・ベラフォンテ、プラターズだった。
 昭和30年代初頭に興ったロカビリー・ブームの中で、黒人ロックンローラー、リトル・リチャード、チャック・ベリーのヒット曲は、大衆に黒人音楽への興味を拡大させてくれた。東京・有楽町・日本劇場で行われたロカビリー・ライヴ“ウェスタン・カーニバル”で、こうしたミュージシャンのヒット曲が頻繁に歌われた。注目はコアなファンの間で黒人歌手、ファッツ・ドミノの「ブルーペリー・ヒル」、「エイント・ザット・ア・シェイム」、「アイム・ウォーキング」などのシングル盤が高く評価されたことだった。ファッツは、ニューオリンズのR&Bの先駆者として有名。その後、昭和30年代の後半、満を持して登場したのが、黒人音楽の本質だったR&B(リズム&ブルース)の巨人、レイ・チャールズだった。まず「ホワッド・アイ・セイ」がヒット。次いで「愛さずにはいられない」が大ヒット、徐々にわが国の黒人音楽ファン層に変化が観られるようになる。つまり黒人音楽の核心に若いファンは、触れ始めて行った。
 ダイアナ・ロスを擁した黒人女性コーラス、シュープリームスの大活躍も見逃せない。昭和30年代後半、「恋のキラキラ星」、「愛はどこへ行ったの」などが流行った。42年にヒットしたソウルの女王、アレサ・フランクリンの「貴方だけを愛して」や、サム・クックの「ユー・センド・ミー」、「チェイン・ギャング」などのヒットも、ソウル・ミュージックへの関心を高めてくれた。ソウルといえば、オーティス・レディングのヒット作も、黒人音楽普及を広げたことでも重要だ。昭和43年に大ヒットを記録した「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」は、当時流行ったディスコ・ブームと上手くシンクロして全国的に人気が急上昇。
 昭和45年を迎えると、本格的なブルース・ブームが到来した。まず頭角を現したのが、ご存知B.B.キングだった。キャンパス・シーンでは、もっとディープなブルースを愛する若者が増え始めた。アメリカ南部で戦前(1930年代から45年)に流行ったブルースを聴くファンが増え始める。アコースティック・ギター弾き語り歌手の泥臭いブルースに魅せられた若者は、カントリー・ブルースと呼ばれたこのジャンルにのめり込んで行った。時期を同じくして創刊されたロック雑誌『ニュー・ミュージック・マガジン』は積極的にブルースに関する記事を掲載、ロック・ファンは“ブルースは気になる音楽”としてとらえ始める。ブルース・ブームの中でファンが増大したのは、カントリー・ブルースの魅力もさることながら、当時人気者だったエリック・クラプトンやジョニー・ウインター、マイク・ブルームフィールドなどのブルース・カヴァー録音にも起因していた。つまりブームが拡大したのは、ロック・スターたちが愛したブルースのオリジナル録音を知りたいという願望が芽生え始め点にもあったようだ。
 こうした状況中で昭和49年年11月25日、記念すべき第一回ブルース・フェスティヴァルが東京・芝郵便貯金ホールで開催された。出演者はスリーピー・ジョン・エステェス、ハミー・ニクソン、ロバート・ジュニア・ロックウッド、エイシズだった。この時期、トリオ・レコードから米デルマーク原盤の『スリーピー・ジョン・エスティスの伝説』から発売された。今では信じられないが、このアルバムは、オリコン・チャートのベスト・セラーの上位に食い込んだ。それだけブルース・ブームが凄かったというわけだ。その後第二回が東京・大阪・京都で昭和50年に開催された。その時の出演者はバデイ・ガイ、ジュニア・ウエルズ、ジョニー・シャインズ。第三回ブルース・フェスも、昭和50年に開催。この時の目玉ブルース歌手は、オーティス・ラッシュだった。残念なことに音楽評論家、中村とうようの尽力で始まったこのブルース・フェスも三回のみで終わってしまった。だからといって、ブルース・ブームが終焉を迎えたわけではない。その後黒人音楽全体を味わえる“ジャパン・ブルース&ソウル・カーニバル(Japan Blues & Soul Carnival)”が、昭和61年(1986年)に開催され、このイヴェントは日本では最も息の長いブルース・フェスティヴァルとして知られており、今でも続いている。ここからもわが国の音楽ファンの黒人音楽への関心の高さを伺うことができる。
 ブルース・ブームの余波を受けて、日本の独自の黒人音楽シーンが誕生した。その先駆けは、ディスコ・ブームからうまれた。昭和46年、日本人によるソウル・ミュージックがディスコ・ファンの間で流行ったことがあった。クック・ニック&チャッキーというグループの「可愛いひとよ」(作詞:阿久悠、作曲:大野克夫)だった。リーダーのニック岡井はソウル・ダンス、ソウルDJの先駆者として広く知られている。ブルース・シーンでは、京都、大阪を中心に大活躍したウエスト・ロード・ブルース・バンド(メンバーはギターに塩次伸二、ベースに山田晴三、ドラムスに堀尾哲二、ヴォーカルは酒井ちふみ)、憂歌団(メンバーはヴォーカル&ギターに木村充揮、ギターに内田勘太郎、ベースに花岡献治、ドラムスは島田和夫)などが、ブームの中で全国区のスター・バンドへと飛躍した。特に憂歌団の昭和50年発売「おそうじオバチャン」は、和製ブルース・ソングとして大ヒットを記録した。ブルース歌手としては、近藤房之助、 大木トオル、木村充揮(憂歌団)、 上田正樹、柳ジョージなどが話題を集めた。特に“伝説のイエローブルース”という異名を取った大木のアメリカでの大活躍は、日本人ブルースの質の高さを如実に示してくれた点で忘れ難い存在だった。
 ブルース・ブームが全国を席巻した頃、ブルース・レコードを専門に扱うインディーズが誕生した。昭和49年(1974年)、東京・吉祥寺にブルース&ソウルを専門に扱うレコード店『芽瑠璃堂』がオープンした。これが母体となって同年、長野文夫が設立したのが、ヴィヴィド・サウンドだった。昭和51年(1976年)、日暮泰文と高地明は、東京でブルース・インターアクションズ(Pヴァイン・レコード)を設立した。二人は、この一年前に、ミニコミ誌『ザ・ブルース』(現在では誌名を改め、『bmr』として人気がある)を創刊したことでも有名。快挙は、昭和58年に起こった。Pヴァインは、何と黒人音楽の名門レーベル、チェスと契約、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、チャック・ベリーなどのアルバムを積極的に発売した。



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