ANY OLD TIME IN AMERICA


 ■ ANY OLD TIME IN AMERICA


昭和洋楽アンソロジー

♯07 〜 マンボ・ブームを演出したペレス・プラード 〜

ペレス・プラード
 戦後まもない昭和時代は、蓄音機といわれたレコード・プレイヤーはまだまだ高嶺の花だった。こうした背景から庶民は、ラジオから流れる洋楽を貪(むさ)るように聴いたものだった。NHKラジオだけでなく、民間のラジオ曲も次々と誕生、庶民の娯楽はラジオから聴こえるアメリカ音楽=洋楽へと流れていった。
 少しこの場を借りてラジオの歴史をおさらいしておこう。ラジオ放送の先駆けは、やはりアメリカだった。大正9年(1920年)、KDKA局が設立され、やがて全米にラジオ・ブームが沸き起こった。英国はアメリカに後れること2年あまり、1922年にBBCが設立される。
 わが国のラジオ放送は、意外と早くアメリカに遅れること5年、大正14年(1925年)3月にJOAK(財団法人東京放送局)が産声を挙げ、その後6月にJOBK(大阪放送局)、7月にはJOCK(名古屋放送局)が設立された。
 翌年、三つの放送局は、財団法人・日本放送協会と名を統一して今日に至っている。民間放送の歴史は、戦後から始まった。日本初の民放ラジオ局は、何と名古屋から誕生したというのだ。昭和27年(1951年)9月、中部日本放送が開局。余談だが、わが国初のFM放送は、昭和33年(1952年)に開局した東海大学の実用化試験局FM東海(のちのFM東京)だった。
 名古屋に先手を打たれた東京勢は1年後の昭和27年、ラジオ東京(現TBS)を設立。その後直ぐに文化放送が誕生した。ニッポン放送は、昭和29年(1954年)に遅れを取って開局した。音楽ファンを沸かせたローカル・ラジオ局、ラジオ関東(現ラジオ日本) は、かなり後れを取って昭和33年(1958年)にオン・エアーに漕ぎ着けた。こうして昭和のラジオ黄金時代が到来した。
 昭和27年(1952年)、ラジオから“ウー”という陽気な掛け声と共に、明るいラテン・リズムが繁茂に流れ、人々は新しい洋楽「マンボ」に狂い始めた。マンボ狂騒曲の始まりだった。キューバ生まれのラテン音楽が、わが国の洋楽ファンを魅了する。主役は伊達な付け髭が看板のペレス・プラードという陽気な男だった。「セレソ・ローサ」が大ヒット、強烈なリズムに乗って踊れる素敵なダンス・ミュージックだった。ラテン伝統のルンバと、アメリカン・ジャズの要素を組み入れた「マンボ」は、いってみればあの時代のフュージョン・ミュージックだった。プラードはラテンの本場、キューバ出身。地元では目が出ず、メキシコ・シティに住み、「ペレス・プラード楽団」を結成、アメリカのポップス市場にマンボ売り込み、大成功を収めた。その余波がわが国に届き、空前のマンボ・ブームが誕生した。他のヒット曲は「マンボ No.5」、「マンボ No.8」、「闘牛士のマンボ」、「エル・マンボ」、「パトリシア」、「チェリー・ピンク・マンボ」など。マンボの上陸は、わが国のラテン・ブームの先駆けだった。
 プラードの初来日は、昭和31年(1956年)9月、浅草・国際劇場で行われた。二度目の来日は、昭和35年だった。以後何回となく来日公演を行った。プラードは、バンドの前で踊りながら指揮をとり、マンボ効果を否応なく発揮したパーカッション奏者の前では狂ったように踊り始めた。この噂は、庶民にあっという間に伝わり、まだコンガ、その他のパーカッション楽器などが入手困難な時代ということもあって、ファンは銭湯の風呂桶を叩いて、マンボに現を抜かしたという。大衆歌手でもはや揺るぎない地位を得ていた美空ひばりもマンボ・ブームには勝てなかった。とうとう「お祭りマンボ」、「泣き笑いのマンボ」を発売、前者はいうまでもなく大ヒットを記録した。
 面白いところではトニー谷の「さいざんすマンボ」、高島忠夫の「マンボ息子」なども発売され、話題を呼んだ。雪村いずみの「マンボ・イタリアーノ」、「マンボ・バカン」、「ジングル・ベル・マンボ」なども、捨て難い国産マンボの傑作だった。ラテン音楽、とくにルンバなどを得意としていた楽団も盛んにマンボを演奏、ブームに拍車をかけてくれた。代表的な当時のバンドは、見砂直照と東京キューバンボーイズ、有馬徹とノーチェクバーナだった。昭和30年に発売された江利チエミの「パパはマンボがお好き」も大ヒットを記録した。チエミのマンボ作品は、他に「イスタンブール・マンボ」が有名。歌謡曲歌手でありながら、洋楽にも精通したチエミは、昭和32年2月20日、黒人コーラス・グループ、ザ・デルタ・リズム・ボーイズと産経ホールで共演を果たし、アルバム『チエミ&ザ・デルタ・リズム・ボーイズ』(キング・レコード)を発表したたこともあった。
 空前のブームとなったマンボは、イタリアまで飛び火した。映画女優ソフィア・ローレンが主演した映画『河の女』の主題歌「マンボ・バカン」は、昭和31年わが国で大ヒットを飛ばした。唄ったのは、肉体派女優と持て囃されたローレンだった。先にも触れたが、雪村いずみのカヴァーもかなりの人気だった。



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